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「したいこと」と「しなければならないこと」と…。  
子どもたちの「したいこと」と「しなければならないこと」は、そのままに「遊び」と、「学び」とに置き換えることが可能なのだろうか。

「したいこと」とは、それがどういうことであれ、必ず、なんらかの「心地良い感情」を伴うことなのだろう。だとすれば、つまり、それが「誰かのために」などという思いに基づくものだとしても、つまるところ自らの利益のため行為であると言えるようだ。

ときに、そうした体験こそが、子どもたちの誰の中にも備わる「育とうとする力」を刺激して、「自らを育む」という大きな結果をももたらすことでもあるのだが…。

また、子どもたちの「しなければならないこと」を、しまね自然の学校や焚き火小屋でのさまざまなシーンに見れば…。それは、テントを張ったり調理をしたり、ときには森に入って燃料となるたきぎを集めてくるなど、そのすべてが仲間の一員としての自覚に基づくことであるようだ。

そして、おもしろいことに、自然の学校の場合「しなければならないこと」に積極的な子どもたちは、そのリピート率が高いようだ。もしくは、何度かリピートするうちに、こうしたことに積極的になってくるとも言えようか。

これは、「なにをして良い!」のか。もしくは「何をしたらいけないのか!」など、しまね自然の学校のシステムやその質的なムーブメントを解して、彼ら自らが、そこに「自らに益するものやこと」を理解したさきの状況であるようだ。そして、そうしたことを解した子どもたちが群れるとき、じつに彼らは主体的でパワフルだ。ここに、いたずらに「指導者」や「指導的な状況」など必要ない。

いや、厳密に言えば、ここに大人など必要ないのかも知れない。ときに「子どもたちのために!」などと、じつはそれこそが本来的な対人関係の有り様を見失った「エゴにもちかい自己満足」に基づくものだと解さない大人の、いわゆるボランティアな指導などもってのほかとしか言いようがない。

しまね自然の学校のような団体が「しなければならないこと」とは、つまり、子どもたち自らが、そうした主体的になれる状況を作り出せるように支援することである。だが、しかし、そのためのスキルやノウハウはどこにあるのか。

永く、これが疑問だった!。

島根に「ワケス」という言葉がある。これを、本来的に関東人であるわたしは「若い衆」ぐらいに解していた。だが、じつは、こちらではその意味するところが少し違うようである。この言葉をある講演のときに使って、現在の島根県教育庁教育委員会の藤原義光教育長にお叱りを受けた。「お前の発音とイントネーションでは、どうにも本来的な意味が伝わらない!」と…。

出雲のこの言葉には明確に「次世代」という意味があるようだ。

そうなのだ! 子どもたちとは、地域社会の次世代でもあるはずだ!。 だとするなら、その次世代の育ちの支援にもっとも大切にするべきものとは、子どもたちそれぞれの帰属する地域社会の日々の暮らしの中にこそあるはずだ。

では、その具体的なヒントはなんだ!。

写真は、札幌に在住して、「meLL flowers」という花屋を経営する知人が作ったこのお正月の「松飾り」である。しかし、この気高さと品位ある美しさはどうだ。素材は若松、稲穂など、誰でもが当たり前に知るものばかりだ。にもかかわらず、この美しさはどうだ!。

知人の美意識の高さ!。そして、フラワーアーティストとしてのスキルやセンスが、どれほどに高いかなど言葉にするまでもないだろう。だが、意識されるべきは、それらがすべてではないようだ。知人のブログやホームページには、その仕事上のパートナーへの配慮や、ユーザーへの気配りがあふれている。

花を思うおもいや、花束を手にする人々への心遣いがあふれているのだ。

つまり、この松飾りの品位と美しさは、これを作った知人に内在する「社会に一員としての品格ある美しい自覚」に由来するのだろう。

だけに、これを前にする大半の人々が、この美しい松飾りに心地良い緊張をともなうレベルの「日本人」としての「帰属感情」をも刺激されるのだ。つまり、この松飾りは、社会に一員としての自覚を呼び覚ます美しいシンボルになっているのだろう。

子どもたちが、いわゆる「ワケス」であるなら、その育ちの支援者が意識すべきものがここにこそあるようだ。この知人の松飾りを作ることは誰でもが出きることではない。だが、その質的なものを理解し意識することは、けして難しいことではないはずだ!。

家族で、襟を正して新年を祝う。

久しぶりに帰省した娘のために、我が家ならではの心地良い「晴れの日」を用意する。

だからと言って、それらに豪奢を気取るなど馬鹿げている。大切なことは、関わるそれぞれが、心地良い帰属感情を刺激されるレベルに襟を正して贅を尽くせば良いことだ。

言うなれば、花一輪の心地良さを大切にして…。

そして、これは、しまね自然の学校のような体験教育事業体の立ち位置もまるで同じなのだ。

まずは、子どもたち自らが自然の学校を心地良いと感じられ、その帰属感情を刺激できるような状況を意識する。ときに「焚き火小屋」は、その目に見えるかたちであるのかも知れない。また、メニューやプログラムに、彼らが「島根」を、「オリジナルなものと意識できるよう」にシンボリックなものを用意するなど…。

これまでに、機能したものをあげてみれば、まずは「しまね自然の学校」のロゴだろうか。これがなぜか子どもたちに人気がある。つぎに森に遊ぶときの子どもたちは大半の場合クライミング用のハーネスを着ける。木登り、岩登り、沢に遊ぶときなど、現実に必要だからなのだが、子どもたちにとって、こうしたギアーは自然の学校に参加しているという意識を高めるシンボリックなものであるようだ。

そして、そうしたものが「お前用…!」と手渡され、これを大切にすることをピアリーダーたちに教えられることで、彼らは自ら、自然の学校への帰属感情を育んでいくようだ。つまり、そのさきの「しなければならないこと」に、子どもたちは主体的にパワフルになるのだ!。

「しなければならないこと」を「したいこと」にすり替えて…。

ともあれ、新年!。

幸いにも出会えた「meLL flowers」さんのこの美しい松飾りをシンボルにこの一年を心地良く過ごしたいものだ!。




※美しい「松飾り」の写真は、「meLL flowers」さんにお願いして拝借した。感謝!。ちなみに、クリックすればオリジナルのスケールになる。ちなみにホームページはhttp://mellflowers.com/だ。


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Thinpad240z+Debianに「Pyroom」が入った!。  
もう、最高だ!。

やっと、思いどおりになった。昨年末から、想い描いていたささやかな夢が叶ったと思えるほどに心地良い!。

Thinkpad240z にminimal install したDebianの上で、どうしても動かしたかった editorがあったのだ。Macの「WriterRoom」という、じつに美しいeditorのデザインコンセプトを元に、pythonで書かれた writeingアプリなのだ。昨年の秋ごろ、その存在を知って、自作したディスクトップパソコンにインストールしたUbuntuの上で使ってみた。そして、じつにMac譲りの美しさと、その快適なユーザービリティーに感動していたのだ。

そして、出来れば、これをメインの Thinkpad240zの上で使いたかったのだ。だが、残念ながら、そのスペックが低すぎてこれが思いどおりにならないでいた。ThinkpadにインストールしてあるDebianでは、このアプリが依存関係にあるpythonなどのパッケージがインストール出来ずに、なす術もなく悶えていたのだ。

結局、そのために知るべきことの理解に、気付いてみれば2ヶ月ほども懸かってしまったことになる。しかし、上出来だ!いや、まったく最高の気分だ!。

じつは、Ubuntuなら、このアプリにはUbuntu用のdebパッケージがある。だから、GDeb Packageインストーラが使えて、たやすくインストール出来たし、共存関係なども、昨年ぐらいのバージョンならUbuntu8・4でもまったく問題がないと思う。

だが、Ubuntuは、それ自体がThinkpad240zレベルに使うには重すぎる上に不安定な要素が多すぎてまともに動かないし、とても使う気になどなれないのだ。だけに、安定性抜群の上に、アプリの並列機動まで可能なほどにカスタマイズが容易なDebianがお気に入りなのだ。

しかし、提供するアプリは徹底的にチェックされ、その安定性こそをもっとも重視するDebianである。Pyroomのような比較的に新しいアプリなど、そのリストにも入らないし、共存関係の課題を解消しながらこれをインストールするなど至難の技である。

つまり、これを理解するに2ヶ月も懸かってしまったのだ。だが、嬉しいことに上手くいった!。

見てくれ!この徹底的にシンプルに美しいインターフェースを…!!。

最終的に選択したことは、Debianのsqueezをminimal installしたことだ。そして、ウインドウマネージャーも、軽く動くタイリング型の「Ion2」を選んだ。また、その他のアプリも、[top]や [pstree]のコマンドを実行しつつ、原則的にCliベースに動くものを選択して…。

ともあれ、Debian+Ion2に補助的に Openboxをいれて、Vim+ScreenがWritingの常用環境。これに音楽はAlsa+mocで楽しんで、メールはGmail+mtuuを使う。つまり、GUIなアプリを出きるだけ避けることで、Thinkpad240zがビンビンに動く心地良くて、じつに美しい環境を手に入れることが出来たのだ!。

しかし、あまりの嬉しさに、人間、願えば「叶わない夢などない」のじゃないかと思えてくる!



distractionless fullscreen text editor

PyRoom is a free editor that stays out your way - and keeps other things out of your way, too. As a fullscreen editor without buttons, widgets, formatting options, menus and with only the minimum of required dialog windows, it doesn't have any distractions and lets you focus on writing and only writing.







独学する自由とオープンソースという思想と… 

「…簡単に説明すればですよ!一般的なLinuxの起動シーケンスは、電源投入からBIOSがMBRに書き込まれたブートローダーをメモリにロードする。つぎにGRUBがカーネルとイニシャルRAMディスクをメモリにロードする。カーネルは、自身の初期化シーケンスを実行し、メモリにロードされているinitrdをマウントする。

さらにカーネルは、initrdを利用してルートファイルシステムをマウントする。また、カーネルは自身の初期化の最終段階で1番目のユーザープロセスであるinitを生成こともする。で、initは、起動すると/etc/inittabを読む。 /etc/inittabにはシステムのランレベルと、initが起動するプログラムが記述されていて…。つまり、initは、/etc/inittab に指定されているrcスクリプトである /etc/rc.sysinit、/etc/rcを実行する。…」

「…まあ、実際には、すこし違うプロセスもあるし…。だけど、大雑把に言えば、そんな感じなんですけど…。私の言うことが解りますか!?。解らないでしょう!。…」

「… 解らなくて当然ですよ!私だって、ここまでを理解するのに5年もかかっているし、たとえば、これまでに読んできた図書代を大雑把に考えても、軽く10万にはなるでしょう。…だからして、そんなことを、いきなり教えろって言われたって出来るわけないですよ!。で、だから、あなたがそのThinkpadを本当に直したくて、 Windowsの代わりにLinuxを使いたいなら独学しなさいって言ってんです。…」

一言もなかった!。

どころか、こいつはそうとうに傲慢な嫌な奴か…。もしくは、本当に正直な輩かも知れないという思いの狭間に揺らいでいた。

確かに、なにごとかを解するに、そのなにごとかを順を追って並べることができて、そのすべてを見えるかたちに学ぶなら、「教えてもらうこと」はあながち難しいことではないのかも知れない。だが、「見ることができないもの」を…。しかも、それには複合的なプロセスや、さまざまなパターンがあるようなことがらを理解するに、「教えてもらう」など、教える側に相当にその知識や指導力があったとしても、じつにこれは難しい。

安易に「教えてくれませんか!」と口にしたことを恥じた!。そして、同時に憤懣やるかたない思いにも似たものに脳裏が痺れるような感覚にも襲われた!。

「…ともあれ、あなたが本気なら、帰ったらThinkpadに電源を入れて、モニターにIBMのロゴが出たところで、F1かF12か、もしくはDeleteキーを叩きつづけなさい。その先に何があるか…! いまのあなたに、私が教えられることはそれだけです!。…」

三年ほど前になる。出雲市内のある喫茶店でお会いした人物に、Linuxについて…。いや、コンピューターについて、わたしがこれまでにただ一度だけ「教えていただいた」ときのことである。

現在も愛用するThinkpad240を手にしてから、そろそろ十年ほどになる。だが、コンピューターについて、わたしが、当時理解していたことはこのレベルだったのだ。だけに、彼の言った、F1かF12か、もしくはDeleteキーを叩くに、わたしは、壊す、壊れるというレベルではなくて、壊しても「殺されることはない!」ぐらいの緊張の中に叩いたのだ。

ちなみに、わたしはながくクライミングという相当に危険な遊びを楽しんできた。だけに、冒険することがあながち嫌いではない。にもかかわらず、この時の緊張を表現するに適当な言葉を見出せない!。なぜなら、数年を使ってきたとは言え、 Thinkpadは、購入時の金額が30万を越えたのだから…。

そして、そのキーを叩いたその後を言えば、しばらくのあいだ、ただただ、混乱と懸命との最中を漂いつづけた気がする。よく理解して、当たり前に扱うレベルに「コンピューターは断じて壊れない」と確信を持てるようになったのは、じつに最近のことなのだ。

そして、感謝とともに思う。三年前に、理路整然と「教えないこと」を断言し、独学することを進めてくれた彼に出会うことがなかったなら、じつに今の自分の理解はありえないと…!。

考えてみれば、わたしはじつにさまざまなことをする。クライミング、ナイフメーキング、金属から竹や木までを素材にするクラフトの類などなど。だが、これらについて考えても、じつはここでも、わたしに師匠はいない。

「独学する」などという言葉は意識しなかったが、気が付けば、「…したいから! 。こんなのが…、欲しい!。」のさきに、すべてを自分で考え、思いつくままに手に入れてきた。つまり、かたちあるものも、いわゆる技術などということもだ。

これを振り返えれば、じつは、わたしは常にマイペースにいたのかも知れない。考えれば、「教える者」がいない環境に「なにかを学ぶ」のだから、当然なことなのだろう。

飽きたら止める!。感心が戻れば、ときに寝食を忘れてのめり込む。しかも、そのスタンスは、いつでも興味を呼ぶ「好きなところから」なのだ。襟を正して誰かに「学ぶ」なら、じつにふざけた立ち位置であるのかも知れない。しかし、わたしの「生きる」は、わたし自身のものである。

だけに、これで良いのだ!。

言うなれば、独学するとは一人遊びにもにた優位にあるのかも知れない!。

「終わる」こと「完成する」ことなどに捉われず、常に「ベストに向かう未完成な状況」とでも言えば良いのだろうか。

じつに、わたしのThinkpadがそうなのだ!。当たり前の社会認知から言えば、十年も前の塵にもちかいノートパソコンが、まさに日を追うごとに進化するのだ。

Linuxという自由と、オープンソースというコンヴィヴィアルな思想に支えられて…。

ともあれ、件の知人との久しぶりの電話のやりとりに、そんなことを考えたのだ!。




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