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「ラヂウスの音」 
深夜に、腹が空いて目が覚めた。昨夜は、わけもなく遅くまで人の出入りがあって夕食をとる機会を逸してしまったのだ。考えてみれば、到来ものの林檎一つにパンを一切れ食べただけだった。

しかし、真夜中に、まともに食事をするのも何だし、我慢して寝ようと思うのだが寝付けない。「なにか、すこし…!。」と調理場をあさったのだが、こういうときに限ってそのなにかが見当たらない無い。

いや、おばあさんの野菜室をのぞけば、それだけで裕福な気分になれるレベルにもろもろの根菜類がたっぷりある。しかし、それらを手にするのも面倒だ!。

調理場の残りものにサツマイモの切れ端と玉ねぎと、冷蔵庫には豚肉が少々とモヤシがあった。これに食べ残しの焼鯖を崩して出汁にすれば、どうやら、それなりの味噌汁が作れそうだ!。

野菜類のカットのあいだに出汁の用意をと、ガスコンロに火を付けたのだがすぐに消えてしまう。悲しみと不幸とやらは、頼みもしないのにいつでもどこでも連鎖する。

なんとプロパンガスが切れていた!。

焚き火小屋に火を入れるのもなんだし、「まいったな…!。」とも思えたのだが、ふと見れば、足元に自然の学校のキャンプ用のコンロが転がっていた。火口と五徳のあいだの溶接部分が壊れて、子どもたちに使わせることができないから修理をしてくれとスタッフが置いていったものだ。

これを直して使うことにした。

しかし、だからと言って、こんな時間に出きることは限られる。作業場の鉄くずの中から針金を拾ってきて、とりあえず使えれば良いぐらいに修理した。

そして、ガスバーナーで強制的にプレーヒートをすれば、あの懐かしいコンロの音がよみがえってくる。

日光街道の松並木沿いのどこかの河川敷だった。漆黒の闇の中に、かまぼこ形のテントがパラフィンの明かりに青く浮かび上がっていた。

ラヂウスの音が、まるで「おれだけを信じろ!」とでも言いたげに響いている。

その青く白い炎から目を離せば、それだけで、もうそこには戻れないような気がしていた。漆黒の闇の中に、たった一人で…。

のちに聞けば、東京オリンピックの後に盛んになったサイクリングブームの最中であったらしい。そう言えば、いわゆる「ドロップハンドル」が転倒しやすくて危険だからと、通学用の自転車での使用が禁止されていた時代であった。

母に頼まれた使いの帰り道、美しいサイクリング車に出会った!。さながら「地平線に日が沈む」という言葉がぴったりくる晩秋のふるさとの風景の中で、ツイードのカントリージャケットに杉綾のニッカズボン!。グリーンのバスクベレーを被ったサイクリストに、音もなく追い抜かれたのだ。

「たまげた…!。」

自転車のペダルを、壊れんばかりに、夢中に踏んで追いかけた。しかし、美しいサイクリング車はどんどん離れていく。レフォールの亀甲柄の銀色のガードに、茜色の美しい夕刻の風景を曳航しながら…。

近所の豚小屋の掃除にはじまり、朝夕の新聞配達。知り合いの魚屋さんの出前の手伝いなど、いまで言うアルバイトを徹底的にして、上野の「横尾双輪館」のキャンピング車を手にしたのは、中学三年の夏の終わりだった。

日光は、小学生のときの修学旅行で行ったことある。ここなら一人で行けると家人に内緒で準備した。まるで「家出」でもするかよう出てきた、はじめての自転車旅行であった。

「帰ったら、母ちゃんになんてあやまるべ…!?。」

ラヂウスの音が、物音一つしない河川敷に、さながら親父の鳴り止まない雷のように響いている。しかし、この音を止めれば、漆黒の闇の中からなにかが出てくる。

これが怖くて止められずに…!。

深夜に、出来立ての味噌汁を啜りながら、一人思い出すことがそんなことかとおかしくもあった!。



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キハ503 
鉄路をすべる車輪が白い火花を散らしながら悲鳴をあげる。警笛の音は大きすぎてもう聞こえない。運転手さんの顔が夕日を浴びた窓ガラス越しにゆっくり歪む。

「ちぃきしょーう!!。」と、リヤカーのハンドルを天を仰ぎながら懸命に引っ張るキヨシが叫んだ。「だめだー!!。」「もう、だめだー!!。」けたたましい轟音と、車輪の軋みが悲鳴にもにた音たてて、目の前を、リヤカーの向こう側をディーゼルカーが滑っていく。

白い光をみた気がした。

キヨシと一緒に、力のかぎり引っ張っていたリヤカーのハンドルがグニャッとして、その後に、二人一緒に飛ばされた。

鎮守の森の後ろに、最近できた豚小屋を見にいこうと言い出したのはマサオだった。臭いから嫌だというキヨシを説得して、森を抜け、土採り場の小さな丘の上に腹ばいになって、ドキドキしながら真新しい養豚場や町の住宅のような奇麗な建物をのぞいていたら、いきなりキヨシと二人、首の後ろを捕まえられた。

怖くて、あたまの中でなにかが切れそうだったことを覚えている。ちなみに、マサオは、崖の下に飛び降りて、あっという間に鎮守の森に逃げ込んでしまった。

熊のような大男に襟首を捕まれ養豚場に引きずられて…。優しそうなおばさんが「子どもらかまって、何してんだか…!?」と笑っていた。

これが、養豚場の小林さんとの初めての出会いだった。

街からきて、集落の外れに養豚場をはじめたご夫婦には子どもがいなかった。だからだろうか、二人ともすごく優しかった。と言うよりも、行けばかならず出てくるキャラメルやチューブに入ったチョコレート目当てに、学校の帰りに三人で毎日のように遊びにいった。

ある日のことだった。小林さんが、「お前ら、ちょっと手伝いをしろ!。」という。

霜に備えて、冬になる前に豚舎のあいだの敷地に砕石を敷くのだという。ついては、線路の向こうの細谷さんという石屋にくず石をもらう話が出来ているので、一人、100円づつ手間賃を出すからリヤカーで運んでくれないかというのだ。

三人とも有頂天だった。そのころ、母に毎日もらう小遣いは10円だった。マサオやキヨシは「小遣いなんちゃもらったことねえっ!!。」と言っていた。当時、どこの家でも、水汲みや風呂炊きなど家の手伝いをして駄賃をもらうことがまれにあっても、毎日決まった「小遣い」など無いのが当たり前だった。我が家に毎日10円の小遣いがあったのは、たぶん町育ちの母自身にそういう習慣があったからなのだろう。

大喜びで飛んで行った石屋のまえには、すでにリヤカーに半分ほどのくず石が積まれていた。生意気な盛りのマサオの「これっぽっちでいいのげっ…!!。」に、「この馬鹿たれ!一杯に積んだら、おまえらごときに運べるか!。」と怒鳴った細谷さんの言葉の意味を、有頂天だった三人組は聞き逃してしまったようだ。

「あしたも、やっぺ!。」と、大はしゃぎにリヤカーを進める道は、養豚場までほぼ平らなのだ。ただ、一ヶ所を除いて…。

しかし、その一ヶ所も取り立てて危険があるわけでも極端な高低差があるわけでもない。耕運機やリヤカーが当たり前に通る、常総筑波鉄道の小さな踏みきりだった。

渡る前に、自分たちの非力と積荷がなにかに気づくことが出来ていたら、この凄い思い出は生まれ得なかった。

調子に乗ったまま、その踏切になだれ込んで、渡りきる直前に片輪を脱輪させてしまったのだ。

しかし、この段階でことの重大さに気がつけば、まだ救いはあったのかもしれない。三人は、自分たちで何とかしようと考えてしまった。そして、さんざん手を尽くして、自分たちではどうしようもないことに気づいたころに、その踏切から一キロほど離れた「真壁」の駅を、ディーゼルカーが出発した警笛の音が聞こえた。

真っ赤な夕日の中、マサオが線路を、懸命に手を振りながらディーゼルカーに向かって走っていく。

最初の警笛が大きく聞こえた。ガクンと音立ててスピードが落ちた気がした。鉄路をすべる車輪が白い火花を散らし悲鳴をあげる。けたたましい轟音とともに…。

白い光をみた気がした。

最後の最後に、ディーゼルカーのタラップが、リヤカーの後ろを横殴りに引っかけたのだそうだ。運良く、誰も怪我をしなかった。気がつけば、マサオもとなりに下を向いてへたり込んでいる。

飛び降りてきた大勢の大人たちに取り巻かれ、罵倒とゲンコツを覚悟して下を向いているしかなかった。だが、なぜかパチパチと手を叩く音がして…。それはそのまま、大きな拍手になった。

運転手さんが「お前ら、よく頑張ったな~!!。」と言った。

ディーゼルカーの中から、「まーちゃん、だいじょうぶ~!?。」という聞きなれた声が聞こえて、なんだか涙が止まらなくて…。

ともあれ、次の日に、学校で、三人そろってたっぷり叱られたことは確かなことなのだけれど…。

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※この「キハ503」と題した小さなものがたりを、mokouno-taniさんご夫妻の大きな愛情にささえられ、美しい向谷の風景の中に育つ、耕太朗くんと芳朗くん、そして美乃里ちゃんという三人の兄妹たちへのささやかな贈り物としたい。
蝉しぐれの鎮守の森で… 
「… 蝉しぐれの鎮守の森で、半ば悔恨の中に怯えていた。マサオは、得意満面を装っているが、本当のところ、彼も後悔しているのだとその落ち着かない素振りが物語っている。子どもたちが拳骨ジジイとあだ名を付けた近所の口うるさい爺さんに一泡吹かせようと「西瓜泥棒」を計画したのは彼だった。そして、ことは成就した。しかし…」

昨年の夏の初め、「島根日々新聞」に「ガキの頃のように…!」と題して小さなコラムを書いた。「田舎暮らしのすすめ」というくくりのなかで、数人の友人と持ち回りで執筆をしていたのだが…。その夏の日に、自身の少年の日々を振り返り、当時の農村の子どもの「倫理観」のあり様に触れながら田舎暮らしの「優位」について書いた。(冒頭の引用は、その部分である。)

これを新聞社に送る前に、共同執筆をするメンバー全員にメールに添付して送ったのだが、一人だけ返信があった。「手直しせよ…!。」かと開けてみれば、その内容が「解らない!?」という。

蝉しぐれの鎮守の森や、近所の口うるさい爺さん…。そして「西瓜泥棒」も、文字になったものや、TVドラマなどに見聴きしてきたという。しかし、「自らの体験として…!」解さないそれらを、どう受け止めるべきか理解できないでいるという。

驚いた!。しかし、厳密に言えば、けして「解せない…!?」と言ってきた彼に驚いたのではない。

彼と、わたしの年齢差は17年ほどだろうか。また、その育ちの環境も、わたしは関東の田舎に育ったのだが、彼は、九州の比較的おおきな都市にその少年期を過ごしたという。だけに、些少のギャップがあっても当たり前であるのかもしれない。しかし、それが、先に記した文章を理解できないレベルの違いであるのだとしたら…。ただただ、驚くほかになかった。

じつは、今日、我が焚き火小屋を使ったプログラムを企画したいと、ある行政の市民活動を支援する担当者が、しまね自然の学校を訪れた。「上津の自然の中で"子育てと自然の関係”を子育て中の若い親たちに考えてもらいたい」と熱く語られる。「論としては」である。しかし、どうにも論点がすれ違う。具体的に、「上津や、我が焚き火小屋のなにをツールとして使いたいのか!?」をたずねても「ここには、自然が…!。」と繰り返すばかりで要領を得ないのだ。

友人の「解せない…!?」が思われた。

結果、自身の「しなければならない事業…!。」を行政のルールの中にかたちにすることに意識が向きすぎてしまって、もっとも大切にするべき「主人公は誰か…!。」や「テーマは…!。」が見出せないようだ。

無理からぬことかも知れない。ここで叩けば「これは暴力だ!。」と考えながらも、すこし手きびしい意見をのべさせていただいた。

「… 「百姓の息子たち」は、父や母や、おじじやばっぱが、丹精をこめて作物を育てる田畑を荒らすことの意味をよく知っていた。そして、そこを荒らしたそのあとに、自分にどんな結果が待つのかもである。寡黙になったマサオが、ポケットからボロ布に包まれた肥後乃守を取り出した。その刃先が少し入ったせつな、西瓜は、その場にいた子どもたちの心を見透かしていたかのように、音立ててはじけた。…」

子どもを育てるとは、地域社会に理想的な次世代を育てるに他なるまい。そして、だとするなら、それは「環境学習型の自然体験」や、「学び」が主体の公教育環境だけでは補えきれないと理解するべきだ。なぜなら、「「百姓の息子たち」の倫理観」とは、その暮らす環境との関わりに子どもたち自らが主体性に基づく体験に学んだものであるからだ。

こうしたことの理解は、かつて、それぞれの育ちの「あたりまえの体験」にあった。ここに、ことさらに言葉にする必要などなかったはずである。しかし、友人の「解せない…!?」を含む現状を理解すれば、その「体験としての理解を持つ世代」こそが担うべき役割のあることが明確であるのだろう。

いつだったか、ある町の教育者の研修・懇話会に呼ばれたときのことである。主催の挨拶にたった教育長さんが現代の子どもの「我慢の無さ」や「頑張る力の欠如」をなげかれていた。その教育長さんの思いを解さないわけではないが、ここでも手きびしく意見をのべさせていただいた。

われわれが理解すべきは、わたしや、その教育長さんの育ちは、「我慢」や「頑張る力」を自ら育めるほどに恵まれたいたのである。引き換え、いまの子どもたちはその親の世代までもが、そうした体験を大切なものと理解する機会を持つことが出来なかったのだと考えるべきだからである。

ともあれ、われわれは、「子どもたちの育ちの環境がこれほどに歪んでしまった」ことに、まずは、気づくことからはじめなければならないようだ。
少年の日の故郷の記憶に… 
数日前、このブログにアップした記事に親しい知人がコメントをくれた。

記事は、「焚き火小屋でゴスペルを…」と題して、上津の子育て世代の女性たちのグループ「ベロニカの会」が、ゴスペルを楽しむ若い人たちとジョイントして、我が焚き火小屋におこなった、ある意味、地域作りの新しい可能性をさぐったイベントについて書いたものだ。

限られた文字数にびっしりと書き込まれたコメントは、そのイベントの成功を心から喜んでくれていた。ベロニカの会をはじめ関わった多くの人々への賞賛と、自身の感じられた感動を素直に伝えたものであった。

だが、「子どもが家の前の小川で遊んでいるのを眺めながら拝見しました。…」とはじまる冒頭の文字列に、はじめ「どう、つながる!?」と、小さな疑問を感じてしまった。

しまね自然の学校という子どもたちの育ちの支援のための事業にながく関わって…。結果、わたしはこういう言葉や文字列に過敏な反応をしやすいのかもしれない。

ともあれ、そうした反省をしながら、知人のお子さんたちが、「家の前の小川に遊ぶ」シーンを想像するうちに、「水面のきらめく美しさや、川渡るここち良い風の匂い…!。」など、自分のそうしたことがらの原風景がどこにあったのか…。少年の日の故郷の記憶に、思いを巡らす自分に気がついた。

春の初めのネコヤナギにはじまって、ドジョウや小鮒を手にした感触…。ゲンゴロウや水すまし、そして幾種類もの水草…。渡り鳥の営巣、不思議な氷文や霜ばしらの美しさに目をみはった思い出などなど、そのすべてが「家の前の小川」にあった。

そんなことを思いだしながら読み進めて、つぎに「…自分たちの手で作られたものが、異口同音、余韻を味わいたい程「素敵な」「素晴らしい」ものになったということ。…今の時代、最も必要と主張されながら、他の手に委ねられていることだと思います。…」と言う文章に目を止めた。

知人は、いわゆる「中山間地域」の現状とその振興について調査研究する研究職である。少し正確に言えば、仕事としてその機関に勤務するに止まらず、自ら、小さなお子さんも含めた家族とともにある山間の集落に移り住み、その地の事実と可能性とを追体験しながら調査研究する、じつに「真摯な人」である。

だけに、ベロニカの会が主催した「焚き火小屋でゴスペルを…」に、こうした文章がコメントできるのだろうと考えた。しかし、奇妙に、腑に落ちないものがどこかに残る。

ベロニカの会は、自分たちの暮らす上津の豊かさや美しいものを、近未来に、持続可能な社会を意識しデザインし直すことをテーマに、自分たちに出来るレベルのことを大切に活動をしている。つまり、これは、自分たちのするべき当たり前を、当たり前のことと受け止めて出きることを丁寧にしているにすぎないはずだ。

確かに、この当たり前は、現在の都市環境には見えにくいことであるのだろう。しかし、だからと言って、いわゆる専門家が、ことさらに「…今の時代、最も必要と主張されながら、他の手に委ねられていることだと思います。…」と言わざるを得ない状況にあるのだとしたら…。

じつに、これは残念なことだ。もし、そうなら、現在のわれわれの社会に、「自分のことを自分でする。」という当たり前のことが、この知人のような立場に真摯に調査研究しないと理解しきれないということになりつつあるのかと思えるからだ。

いま一度、故郷の小川のふちに立ってみた。

幼なじみのタダシがいた。おかっぱの可愛いゆきちゃんと、じいちゃんに作ってもらった「泥鰌筌」を仕掛けている。田螺を潰して炒りヌカを混ぜて…。

「どうだ…!?」の声に振り返ったら、牛の餌の草刈りにきた洋さんだ!。大きな背負い籠には、刈られた草がぎゅうぎゅうと押し込められて重そうだ。

「おーい!!」と呼ぶ声に振り向けば、正男が、山から帰ったおとうさんの、粗朶が山のように積まれた荷車の上で飛び跳ねている。「遊ぶべー!。」と叫んだら、おとうさんと少し話をしたあとに「み・ず・く・みー!!」と返ってきた。どうやら、帰って風呂や台所の水汲みが待っているようだ。

「まーちゃんもそろそろ帰れ…!」と洋さんが籠を背にした。そうだ、そろそろ帰って風呂の水汲みをしないと、かあちゃんに叱られる…。

ある「晩夏」の風景である。

この生き生きと美しい風景の中に、子どもたちも大人も自分のすべきことを当然に「自分のこと」として暮らしていた。つまり、その豊かな環境に、その暮らしの全てを自分の手で作って(創って)生きていたのである。

そしてこれが、かつてこの国のスタンダードであったはずだ。

『まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。…実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である』と、1878年(明治10年)、この国にやってきた著名な女性探検家イザベラ・バードが歓喜した、この国の原風景であると言っても過言ではあるまい。

この美しい世界は、わずか数十年の間に消えてしまったというのか。

そして、それをもう一度理解するためには、知人の「…今の時代、最も必要と主張されながら、他の手に委ねられていることだと思います。…」に、真摯に耳を傾けることからはじめなければならないのだろうか。

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