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「かまど」ご飯を… 
「…よくお焦げが美味しいと聞きますが、黄色く光ったお焦げのほうが美味しいのです。…」

数日前に、ある知人のブログにこの文章を見つけた。ちなみに、これはどこか縁遠い場所での話ではない。

知人とは、「『田園に豊かに暮らす』を考える女性の会」のVeronicaさんなのだ。だからして、この「お焦げ」の話は、彼女が、我が焚き火小屋に、わたしが築いた「かまど」を使ってご飯を炊いたときの話なのである。

これを目にしたときの思いは、ちょっと複雑だった!。いやいや、だからと言って、けして「うちの施設の話を自分のことのように…!。」などと憤慨したわけではない。むしろ逆なのだ!。

そこに住まいし、「かまど」を築いた自分が、Veronicaさんのこの文章を、「そうなのか!。」と読んでいる奇妙に気づいて唖然としたのだ。

当初は、面白がって毎日のように使っていた。だが、さすがに三升炊きの大釜を、日々に当たり前に使うことは、いわゆる「おひつ」など、この「かまど」を使って食べる文化に生まれたツールを手にすることが出来ない状況には難しいのだ。気づけば、一人用の「かまど風にご飯が炊ける土鍋」とやらを手に入れ、ガスを使う暮らしに戻っていた。

にもかかわらず、Veronicaさんたちが、この「かまど」を丁寧に使ってゲストを迎えたイベントの度ごとに、うれしそうにふんぞり返っている自分の馬鹿さ加減を知らされた気がしたのだ。

ともあれ、「一人暮らしだし、不経済だから…!」などという言い訳は、ここでは断じて通用しない!。当たり前だ!。焚き火小屋を使えば、原則的に燃料は無料だし、なによりも、どんなを素材を調理し料理しても、絶対に、焚き火小屋でのそれは「美味しい」のだ!。つまり、いまの自分の暮らしでは、経済的にも質的にも、食事に関わるすべてのことが、焚き火小屋を使うことが「最良」なのだ!。

にもかかわらず、自分がこれを遠ざけた「便利」とはなんだろう。

気になって辞書に引けば「…(名・形動)[文] ナリ 都合のよいこと。役に立って具合のよいこと。また、そのさま。…」なのだという。

これをそのままに、わたしの場合にあて嵌めて考えれば、「役に立って具合のよいこと」など一つもない。つまり「かまど」を使うことが不便で、ガスは「便利」だからなど通用しないのだ。

だとすれば、けっきょく結論は単なる「ものぐさ」。もしくは、ご飯が炊けるまでの間を「かまど」のそばに火の番をすることが「めんどう」だっただけ…!と言うことになる。

これに気づいて、自らの愚かさに、ただただ呻くしかなかったのだ!。

しかし…!。

たしかに、これは、わたしというの個人の馬鹿げたレベルの話であるのかもしれない。

だが、この話を、この国を40年ほど前に戻して考えてみたらどうなるのだろう。

暮らしのための燃料は、少なくとも循環型の社会環境が維持できれば、自ら造ることが可能であった。当然、その調理の質的なレベルについては、言葉にするまでもないことだ。

にもかかわらず、それらを捨て、恒久的に「燃料を買う」ことを選択したのはなぜだろう。40年前の日本人は、なにを理由に、いきなり、わたしのような「馬鹿」になったのだろうか。

なにかことを起こせば、必ず、そこには「熱変換」現象が起こるという理解は、物理学の基礎ともいうべき常識だ。そして、これを逆説的に捉えれば、熱源としての「燃料」を造れるとは、さまざまな可能性を持つということである。だけに、その「燃料」を捨てた社会は、その連鎖のさきで、じつにさまざまな文化を失うことになる。

「かまど」を捨て、燃料を「ガス」に切り替えたことで、人々の暮らしには具体的にどういう変化があったのだろう。まずは風呂であろうか。生活の中心にあった薪を捨てさせた「ものぐさ」は、必然、五右衛門風呂なども過去の遺物にと押しやった。

じつは、考えようによっては、たったこれだけである!。

これだけのことで、日本人は途方もない質と量の文化を、それと気づかず切り捨て、そこに連鎖して、子どもの育ちのための環境は言うに及ばず、「人の生き方」までを、歪めざるを得なかったようだ。

これを疑問に思う人は、身近な老人に聞いてみるがよい!。「風呂焚きしねえと母ちゃんにしかられる!。」と、夕刻、慌てて帰って行ったのは誰か!。また、今日は、お前の番だろうと「かまど」の「火吹き竹」を、兄や妹に突きつけられたのは誰かと…!。

些細な「ものぐさ」が、我が家の中から「子どもたちの仕事」までも取り上げた。そして、これは、子どもたちの家族の一員としての自覚にもっとも大切な、彼らの「育ち」に重要な機会でもあったのだ。

つまり、こうしたことが、われわれの暮らしに、じつに微細に連鎖する。そして、その究極が、いわゆる過疎にはじまる「中山間地域」のさまざまな課題なのだと考えるべきことであるようだ。

人々が「生きる」に、まず必要なものは(くだらない屁理屈を抜きにすれば)「水」と「食べ物」と「燃料」である。そして、これだけのモノがそろう場所があって、そこに暮らしを共同する隣人があれば、原則、われわれはどんな場所でも生きていける。

暮らしに必要な燃料を、千年を自給してきた薪の類から、恒久的に「買う」を選択せざるを得ない「ガス」や「石油」に切り替えた「便利」が、人々にもたらしたものは、その「自立」した暮らしの「依存」への転換なのである。

そして、この認識に気づくことがなければ、人々は「足ることの豊かさ」も見失うかのようだ!。

限りある資源への依存は、勝ち負けにこだわることを際立たせ、協調し、ともに真摯にあることの心地良さを忘れさせる。そして、その暮らしは、エスケープを許さない「共依存」とでも呼ぶべきもののなかに、荒れに荒れる。かつて、この上もない豊かな暮らしが当たり前にあった美しい故郷や、その山河は、その存在の意味さえも見失われ、ただただ人を拒絶する原野へと戻るのだ。

「食」の文化環境の変化が、その暮らしのすべてを変えたのなら、その「見直すこと」も、美味しい「かまど炊き」のご飯を食べることから、それらのすべてを考えてみたい。

ともあれ、今夜は、Veronicaさん自慢の美味しい、しかも新米の「かまど炊き」のご飯をいただくことが出来た!。

感謝だ!。




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