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小川山 逍遥 
ここ数日、記憶の底に置き去りにして、何年も思い出すこともなかった「小川山」という文字やその風景が切り取られた写真などに、ネットの中で再会する状況にすこし戸惑う日々を過ごしている。懐かしいと思う想い意外のなにかが、自身の中にうごめくのだ。

この「想い」にも似たものについて考え、その答えの出せないままに、見知らぬ人々の「小川山」やクライミングについて丁寧に綴られたブログに、紙魚にもにた、的外れなコメントなどを書き込んでしまって…。一人恥じたり、その抑えきれない衝動の存在に驚いたりしている。

じつを言えばそれは「小川山」に限らない。「日和田山」の記事や、「明星山」のこと…。そして、穂高や谷川岳、ヨセミテのことなど…。”若き山の日々の思い出”と言うよりも「クライミングへの回帰」とでも呼ぶべき思いに揺さぶれる日々を過ごしている。

だが、同時にある自己矛盾におちいらざるを得ない。

現役だったころ、自分が、もっとも大切にしたことが「攀じらないジジイはだまってろ!。」だったからだ。日本人は、永く「共生」を基本理念にその社会を経営してきた。これは、良いことだ。だが、すべてに「産業主義的価値観」を優先する現代社会では、その「共生」のための純粋なロジックは歪められ、疲弊するようだ。

馬鹿げた話だが、「登山」のように「サブカルチャー」とでも呼ぶべき状況にまで「権威」を生み、その質的なものの発展を阻害する要因にもなったいる。これを当事者たちは「枯れ木も山の賑わい…!」などとうそぶくが、遭難救助活動などのステージでは、こうした存在こそがリスクを生む要因となる事実を解さない。

だけに「攀じらないジジイはだまってろ!。」だったのだ。

あるブログのこの夏の「小川山」の写真に感じたことは「…かつての小川山の静けさはさすがにいまはもうないだろうな…!。」だった。この感傷にもちかいものに、数年前、知人がもらした「80 年以前の、フリークライミングの記録が少なくて…!」が重なった。日本のフリー・クライミングは、70年代の米国の「クリーンクライミング」の影響を受け、それ以前のアルピニズムの手段としての技術から、その質的なものが捉え直され、発生、発達したのだろう。だけに、その過渡期はすべてが混乱していたし、当然、その時代に「フリークライミング」と呼ぶべき記録はあり得ない。

自分は、運良くこの時代にすこしばかり関われた。そして、ここに「自分に出きること」があるかもしれないと思われた。ただ、課題は、いわゆる「事実」認識の基準をどこに置くかだ。ことが30数年前にもさかのぼって語られるそれを、私は、自身が体験として理解してきたことに徹するべきだと考える。だけに、「岩と雪」などの雑誌をはじめ、web上のデーターをも検証資料としないでこの課題に向き合うことにした。

ともすると関係する大勢の人々にお叱りを受けるような誤認識や記憶違いなどがあるかもしれない。しかし、こうした課題を考えるには、むしろそうした状況こそが、本来的に望ましいのではないかと考える。

「小川山」のこと。

いつのことだったかは忘れてしまった。だが、それ以前には地元の労山が一部の岩場を人工登攀のトレーニング・エリアとして使っていたに過ぎなかった「小川山」に、現在の「フリークライミング」の概念にちかい認識を持って、はじめて訪れたのは、当時、豊島区大塚に「マウンテン・スポーツ」という登山用具店を経営していた「佐田一朗」だと記憶する。

この「佐田一朗」が、当時の登山界、とりわけクライミングに大きく貢献したことを知る人が少ない。当時、佐田は、「ゴア・テックス」を日本に持ち込もうと考えていた。そして、そのための渡米がどの程度繰り返されたか、自分は正確には知らないが年に数回を重ねていたと記憶する。そして、その度ごとに「クリーンクライミング」に関わるツールや資料を持ち帰っていた。フレンズ、ショイナードのヘキサゴン、T型チョックの類など、これらの大半は、佐田によってこの時期はじめて、この国にもたらされたと言っても過言では無いはずだ。

そしてこの事実の信憑性は、そのしばらく後に、私は、当時の「山と渓谷」の表紙のモデルを頼まれるのだが、その紹介のコーナーに「…ニュー・ウエーブの一方の旗手である。」と記されていることでも証明できると考える。つまり私は、後に日本ではじめて「ヒール・フック」を「小川山」に実践し、韓国・仁寿峰の「ドラゴンへの道」を日本人として初攀する「廣瀬憲文」らとともに、佐田のちかくに運良く居た。必然、身につけたクライミング・スキルは、アルピズムの概念に基づくものではなくて、佐田によってもたらされたものの影響下にあったのだ。

「小川山」での佐田のクライミングは、まずはじめに当時「涸沢岩峰群」と言われたエリアにはじめられたと記憶する。たしか、第三峰にナッツとT型チョックを使ったナチュラルのルートを私が攀じったのが、そうした状況での3本目ぐらいだったと聞いている。ただ、じつを言えば、当時の自分たちの小川山でのそれは、いわゆるアルピニズムにいう「登攀」などではなかったから「誰が初攀した。」など、どうでも良かった。その後に「廣瀬憲文」が、第四峰で”日本ではじめて「ヒール・フック」をした”ことにしても「岩と雪」のクロニクルに記載された文章に、(本人も含め…)はじめてその意味することを理解したぐらいなのだ。

次に、この時代に「小川山」に関わったクライマーの名前を記憶するレベルであげておく。まず、はじめに佐田一朗と、そのパートナーだった「鈴木文憲(日本登高研究会)」がいる。(ちなみに鈴木は、当時「川崎隆章」が主宰した「日本登山学校」に講師として関わっていたと記憶する。)そして、広瀬憲文や「マウンテン・スポーツ」にバイトをしていた者(名前を失念した)や、私などが、第一時期の2年ほどの期間のメンバーといえるだろうか。その後は、当時、私が所属した同人から、森徹也(後に、明星山 P6南壁に「フリー・スピリッツ」や「マニュフェスト」を初登攀する。)、桑原(下の名前を失念)や、飯田肇などが、それぞれ年に数回関わるレベルが2年ほど続いて「小川山」の動きは一時的に収束する。

その理由は、当時、「常磐橋フェース」などに「檜谷清」らによってはじめられた”現在のボルダリングにちかいクライミングの捉え方やその実践に起因する”ように記憶する。だがしかし、もっとも大きく影響した状況は「日和田山の女岩のフリー化」の動きであったろうか。

「日和田山」

「…その中でも関東の主流と言われた日和田山では75年頃から中山芳郎、森正弘らによって本格的に女岩のフリー化が着手され、以降、堀地清次、東田鉄也、廣瀬憲文、岡野正美といった多くの先駆者を生み出している。」

これは、「我々はいかに『石』にかじりついてきたか ~日本フリークライミング小史~」(東京新聞出版局・菊地敏之著)に出てくる一文だそうだ。(私は、この本を読んでいないので正確なことは分からないのだが…)本来的にはどうでも良いことだが、これはどのレベルまで事実に基づく認識なのか少し疑問を禁じ得ない。

まず、私が「日和田山」に通い始めたのは72年ぐらいだと記憶していること。また、75年当時は、そこに3日に開けず泊まり込みを続けた時期だということ。この時期、日和田の土日は人が多すぎてとても充分なトレーニングができる状況に無く。数人の仲間と西武線の終電を使って夜のうちに日和田に入り、翌早朝にトレーニングをしてから仕事に出かけるという馬鹿げたことをしていたのだ。この頃、日和田で「中山芳郎、森正弘」両氏に出会った記憶はあまりない。

また、いわゆる「日和田山女岩のフリー化」は、はじめから「フリー化」が意識されて行われたわけではない。誰だったかは忘れたが、混雑する岩場で、女岩の人工登攀のラインにあぶみを使わずカラビナだけのエイドで攀じり始める者が、まず、はじめに出た。数人の常連にこれが当たり前になり、その先の課題として、「フリー化」が意識されるに至ったと記憶している。これは私の記憶違いだろうか。

大体に、この時期の「日和田山」に「フリー化」という概念そのものが存在したのだろうか。これにも、いささか疑問を禁じ得ない。

ともあれ、こうした戯れ言にもちかい話題は、かつてに比べたらそのスキルもトレーニング環境も格段に進化した現在のフリー・クライミングの世界を楽しむ世代にはどうでも良いことだろうし、その存在する意味すら無いことなのかも知れない。そんな思いにとらわれ、ここまで書き進めながら「やっぱ、止めるか…!」とも考えたのだが、気分転換に覗いたあるブログに愕然となった。

「日山協主催のルートセッター研修会に参加してきた。」と綴られたブログには富山・城端のクライミングウォールの美しくも凄い写真がUPされていた。そして、その凄い壁に本当に驚いた。調べてみれば、さきの富山国体のクライミングの会場として2億7千万円もの費用が投入されて施設されたものと分かった。

凄いことだと思う。

島根に転居した当初、ボードもホールドも自作して、人工壁を、野外、室内合わせて7面ほどを作った。だが、そのうち現存するのは宍道町森林公園に残る屋根もない屋外のそれだけなのだ。残念ながら、中国電力などの助成金を使って自作し、鳥西工や出雲工高、松江高専に贈呈した壁は、その後の管理が出来る状況を生むことが出来なかったことに起因して、現在、その跡形もない。だけに、この凄い設備があること自体にただただ感動する。

ただ攀じる者がいるだけではこうした状況は生まれ得ない。この凄い状況を生むために懸命に動かれた多くの人々の存在が意識された。そして、ここに自分が書くような戯れ言にもちかいものでも、次世代にその文化の背景にあるものを理解してもらう機会の提供に意味するぐらいはありはしないと思えたのだ。

とは言え、そのすべてを30 年も前の自身の記憶にだけ頼って書き連ねたものは、間違った認識もあるかも知れない。また、用語や表現にしても読みにくいこともあるだろうが、かつて自身がささやかに関わり未だ忘れることのないクライミングの未来に少しでも意味することがあれば嬉しい。

また、文中に多くの実名を敬称も入れずに書き込んだが、原則、親しい知人だけに止めた。もし読んでもらっても「馬鹿が…!」ぐらいのお叱りで許していただけると考えている。

ここまで、お付き合いいただいた方に感謝する。

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※この舌足らずな核心を欠いた文章を、これからも自身の記憶を時間軸に照らしながらできるだけ加筆・訂正を続けたいと考えている。疑問や、間違い訂正のご指摘をいただければ幸いである。
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岡野正美さんですか>
高野です。
高野さん、お元気ですか。。 
「焚き火小屋の備忘録」nature21.exblog.jp
↑こちらにも同じ記事を書いてます。コメントを入れ直してもらえたら嬉しいです。
高野さんのコメント、森についで2人目です。。(笑)
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secret


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