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『セルフビルド』 
建築をする。とりわけ「セルフビルド」によるそれは、ともすると「化粧」や「身繕い」にも通じる心地良い気分を伴うものであるだろう。最近、この楽しさにプラスして、「廃材を利用する愉快」とでもいうべき状況に目覚めている。

じつは「規格外のモノ作り」を意識すれば、これまで捨てる以外に手立てがないと思えていた建築廃材には、ときに「精度の高い半完成品」というべき嬉しい状況が存在することに気付いたのだ。とりわけ、そうした廃材のなかでも、いわゆる「鉄くず」を素材に、オリジナルなドアやドア・ハンドル、エクステンションするテーブルなどを作ることを楽しんでいる。

建築素材(もしくは資材・材料…)の中でも「鉄」は、言うなればそのもの自体が半加工品である。だけに廃材でも、カットと溶接の手間を惜しまなければ、少しサビと古い塗料とがうるさいぐらいで新しい資材と変わらない。しかし、驚いたことに、最近見いだし廃材ならではの嬉しい事実は、じつはその先にあった。

角パイプを使って、ドア・パネルのフレームなどを作るには、基本となる四ヶ所のコーナーの正確なケガキとカットと、熱による歪みを計算しながら神経を使う溶接作業が必要なのだが、これが廃材なら、欲しい四ヶ所のコーナーを探し出して、予定の寸法にカットして溶接すればそれで終わるのだ。考えてみればあたり前のことではある。最初にこの作業を終えた直後は、あまりのあっけなさに、狐にでも化かされているような不思議な気がしたものだ。

そして、この廃材ならではの有益性を最大限に活かし、オリジナルなデザインを工夫してすべての作業を楽しんだ。今年、完成したのは「くず鉄を再利用したフレーム」に、これまた建築廃材を、床や天井に嵌めたり落とし込んだりしたキュービックルである。ちなみにその外壁は、ちかくの里山から切り出した「風倒木や間伐材」を半割丸太にして、南フランスあたりの山岳地方にでもあるような、すこしモダンな山小屋のデザインとした。

じつは、ここでも「既成の住宅建築に有りがちな考え方」を無視したことで、そのすべてを十分に楽しむことができた。これが「建築」と言えるかどうかの是非はともかく、少なくとも、持続可能な社会を意識した新しい時代の「田舎暮らし」に大きなヒントと可能性となり得るのではと感じている。

しかし、作業をしながら、この「セルフビルド」という言葉にすこし違和感を覚えるようになった。

この言葉を当たり前に捉えれば、「自分でビルドする」となる。

何を…!?。自分が暮らすための「住宅」をであるだろう。

一見、当たり前に聞こえるが、これは良く考えれば、「住宅とは本来なら工務店や建築会社に委託して建てるものだ!。」と言う認識が前提になった言葉なのである。

これは「正しい!」のだろうか。

ちなみに写真のログキャビン風の準備室は、およそ20日でできた。建築廃材および間伐材はむろん無料である。資材費はネジクギに塗料代などの数千円に止まるのだ。ちなみに、我が焚き火小屋にしても似たようなものだ。

元大工さんだった地主さんが資材倉庫を兼ねていた農機具小屋は、床面積だけでも90平米ほどもある。これが、使えない建築資材の端材や、20年ちかい暮らしに出たゴミが、山のように詰まった倒壊寸前の廃墟のようだった。そして、その倒壊寸前の歪みこそが、じつに面白そうだったので、ここを手に入れたのだ。

右手に溶接機を、左の手にはチェーンソーを持って、その足元に土壁用の泥を捏ねる暮らしを3年ほど続けたろうか。(と言うよりも、じつを言えばこれは現在も進行中だし、その終わりが何時なのかなど考えてもいない。)しかし、その作業の大半は、有償で参加者を募った「焚き火小屋を作るワークショップ」を中心に進めてきた。

だけに、その総工費が一体いくらになるのか解りにくい。しかし、資材として新しく購入したものは屋根に葺いたトタンの波板と、塗料ぐらいである。また、これに買い足した構造材の鉄骨などである。

ともあれ、すべて合わせても百万というところだろうか。

三年ほど前の春に、それまで暮らしていた市内のマンションから、未だ未完のここに転居した。経費の削減を意識したり、通って来る時間を有効に使いたいと思いも確かにあった。しかし、正直に言えば、こんな面白そうな環境を手にしながら「ここに暮らさないなど馬鹿げてる」と考えたからである。

と言うことで、現在、斐伊川端の畑の中の焚き火小屋で、さながら”セロ弾きのゴーシュ ”のような贅沢な日々を、大勢の知人たちに羨ましられながら過ごしている。

「なにを意識するか!。」と言うことになるのかも知れない。

当然、自らが過ごしたこの三年ほどこそが、すべてに正しいのだなどと言うつもりもないし、街に暮らす人にこれを押し付ければ、それは「暴力」にもちかいのだろう。ただ、思えるのだ。

「生まれ、育ち、暮らして、老いるための場所」が、その暮らしも、その土地さえも見知らぬ誰かによってデザインされ用意されることが「当たり前である」現在の住宅事情は、本当に正しいのかと…。

小さなチェーンソーを一台用意する。そして、2トンほどのトラックをレンタルして一週間ほど山間部に通いつめれば、小さな週末用のコテージを作るぐらいの資材が手に入る。しかも、たぶん、それは無償だろう。

これだけのことで、本当の「豊かに暮らす」が見えてくる。また、人生とは「われわれ自身のモノ」であるべきなのだとも…。
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