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「婆娑羅」 
お気に入りのeditorを立ち上げ「利休」とタイプして、しばらくそのまま固まってしまった。

なんとも大きな名前だなという思いと、「で、お前はこの巨人についてどれほどを理解し、なにほどのことが書けるというのか!。」と言いたげな、モニターに写り込んだいかにも頑固そうな自分のジジイ顔ににらまれた気がしたからだ。

茶の湯のことを正しく学んだわけではない。だけに、けして茶人を気取るつもりもない。しかし、この巨人がかたち作った茶の湯のことが、この国の人々の礼儀や倫理観にどれほど大きく関わったかを少しは理解しているつもりだから、いたずらにその断片を切り取り、うがった見方をして、この巨人を叩くことに喜びを見出すほどの馬鹿でもない。

昨年の秋ぐらいから、「利休」の遺作と伝わる国宝の茶室「待庵」を写すという暴挙に遊んでいる。しかし、写すといっても、あくまでそのディテールを大まかにコピーしているにすぎないのだが、その程度のことでも、この「待庵」の、現代建築の常識だけでは図りきれない不思議が見えてくる。あえて言えば、"利休という思想”を理解しなければ、まるで解せない不思議がである。つまりここには、この数ヶ月のあいだ翻弄され、些細な体験に理解したその不思議について自身の備忘録として記そうと思うのだ。

焚き火小屋の増設が一段落した昨年の秋に、残った建築資材や、数十本の間伐材の処理もあって、隣接する農機具小屋のなかに、地主のおばあさんの休憩室を作ることを考えた。これは、我が焚き火小屋を拠点に活動する「『田園に豊かに暮らす』を考える女性の会」の本来的な支援者とは、彼女たちの母の世代の、このおばあさんたちであるべきだと考えたからだ。しかし、万事が控えめなこの世代の婦人たちは、意味もなく気取った小屋などを作ればけして使ってくれない。

畑仕事の合間に使えて、できれば畳敷きで、ゆっくりお茶ができる場所を意識して、その限られたスペースも考慮したら「待庵」がそのまま脳裏に浮かんできたのだ。しかし、それを完全に写せば狭すぎる。そこで「隅炉本手前」のデザインはそのままに、取り外すことが可能な畳を一枚足して「深三畳」にした。ふだんは畳を一枚だけ外しておいて、おばあさんたちが土足のまま集うことが出きるようにと考えたからだ。

これを閃いて、構造図も書かずに建築廃材の鉄パイプを使ってフレームを作り、ここに間伐材の半割丸太を落とし込むようにして、とりあえず「待庵」に一畳プラスしたスペースをかたちにした。そして、「さて次は…!」と考えたところで不思議なことに気がついた。一間の幅に一間半の奥行き、これに高さが二千四百ほどの単純な立方体でしかない空間に、なんとも奇妙な歪みが感じられるのだ。ちなみに、どこか寸法が狂っていたのだというレベルの話ではない。

仮の畳を敷いて、「にじり口」になる予定の場所に腰をおろして、その奇妙なものの正体を理解した。

「待庵」には、いわゆる「シンメトリーな構図」が存在しないのだ。

「にじり口」から見る床のある壁面にも。客座の背後のモンドリアンのデザインをも思わせる壁面にも。当然、「にじり口」のある壁面も、たいこ襖によって次の間とのあいだを仕切る壁面にもだ。そして、わずか二畳の床も、天井さえもがそうなのだ。しかし、じつは不思議はそれだけに止まらない。構図どころか、その建築構造にまでこの"意図された不均一”は存在する。「にじり口」の上の「連子窓」について考えればそれは見えてくる。また「にじり口」のある西側のファサード全体を見通してみても解るだろう。しかも、この「シンメトリーな構図」を徹底的に否定する意志が確固たるものであることを思わせるものが、この「待庵」の茶室という空間の中心にこそあった。

お茶ごとについて亭主の側から考えることが出来れば、その四時間ほどのプロセスに、もっとも難しく重要な所作が「炭手前」であることに異議を唱える者はないだろう。湯を沸かし、静かな茶室の中で聴く松籟の音にすべてをゆだねて、ときに客は、炉の中の小さな焔に亭主の「一期一会」を想う思いを理解する。これは、考えるまでもないことだ。

「炉」とは、茶室という宇宙の中心を担うものだ。「隅炉本手前二畳」の「待庵」の「炉」は、床のある壁面とたいこ襖のある壁面とが接する部屋の隅にある。つまり「炉縁」の二辺が壁面に沿うのだが、なぜかこの二辺の壁面が接するところが、左官用語に言う"塗り回し”がほどこされている。それはまるでこの"部屋の隅を明らかな意志をもって排除しようとした"かのようである。当然、その結果が「炉縁」にも及ぶことは言うまでもない。

ここまで、頑なに「シンメトリーな構図」を排除する理由はなんなのだろう。

茶の湯に関わる多くの文書を調べてみたが、そのヒントになるようなものは、まったく見出せなかった。また、著名な茶室の研究者のそれにも、"「シンメトリーな構図」を否定する”などと言う言葉は出てこない。どうにも高名な茶人たちは「利休」の「茶のこころ」の理解には懸命だが、その思想にはあまり関心を示さないようだ。唯一、久松真一の「完全を否定する不完全」という「茶の精神」の中の言葉に示唆するものが感じられた。

「シンメトリーな構図」を排除するを「完全を否定する」に置き換えて「利休」とその時代を考えてみると、現代の日本語では、単純に読めない言葉がずいぶん出てくる。自由都市、公界、阿弥衆、河原者、婆娑羅などなど。(この辺は、網野義彦『日本の歴史を読み直す』あたりを読むに限ると考えるので割合する。)

利休が、当時、自由都市とも公界とも言われた堺の商人であったことはいまさら言葉にするまでもないだろう。しかし、ではそれは、どういう理解に繋ぐべきことなのだろうか。現代用語にすべてを委ねることは無謀ではあるが、あえて言えば、当時の自由都市「堺」とは、独立自治にもちかい治外法権区域と理解しても良いのかも知れない。しかも、そうとうに大きな経済力も持っていたのである。そうした社会環境に多感な青年期までを過ごした利休には、「自由、平等、共生」といった現代の社会理念に捉えても理想的ともいえる社会認識が、その精神的背景に育まれていたのではないだろうか。別な言い方をすれば、それは「権威への反骨」にも通じるといえるのかも知れない。

「待庵」に、利休は誰を待ったのか!。

いわずもがなだが「秀吉」だろう。「秀吉」だからこそ、利休は自身の思想を「待庵」という象徴的なかたちに仕立てて待ったのである。理由は「秀吉」の出自が賤民(ここでのこの言葉も、現代用語にすべてを委ねることは無謀ではあるが…。)だったからに他なるまい。利休には、賤民出身の「秀吉」こそが、自由都市「堺」に育んできた自身の思想を共有できるパートナーとして意識できたのではないだろうか。そして、だからこそ、山崎の合戦に光秀を破り、名実ともに覇者となった「秀吉」を「待庵」を仕立てて待ったのである。

事実、その後の5年ほどを利休と秀吉は傍目もはばからぬ蜜月の時期を過ごしたようだ。そして、利休の悲劇は、権力を手にした秀吉が"変化することをはじめに見抜けなかった"からに他なるまい。

「待庵」とは、思想である。徹底的な「シンメトリーな構図」の排除は、そのままに格式や様式の否定である。それらを利用し、権力をかさに格差を生み底辺からの搾取を続ける「権威への反骨」のデザインだと言っても良いのかも知れない。

「侘び」とは、つまり「婆娑羅」なことであるようだ。

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