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支援するのを止めませんか。(ガキ大将の屁理屈と言いわけ) 
支援するのを止めませんか。(ガキ大将の屁理屈と言いわけ)

 1一括りに考えるべきでは無いのでは…

 「世間並み,この言葉,呪われてあれ」

 日本女性史学の最初の歩みを独学で築いた高群逸枝の有名な言葉である。
 しまね自然の学校は、この夏、13年目を迎えた。その永くもない時間の中に、一度だけ、この有名な言葉を、はらわたの煮えくりかえる思いとともに口にしたことがある。キャンプに参加してきた5年生の男の子に「おかあさんは、なぜ、ぼくを捨てたの…!」と泣かれて、眠れぬ一夜を過ごしたのだ。後日、話に聞けば、山間部の嫁の立場を解さない子育て支援の有り様と、世間体を気にする老人の愚かなエゴが、その子の母を壊したのだと言う。

 子どもたちの育ちが大きく揺らぐ今の時代に、行政レベルで、子育て支援を懸命に進めるのは当然なことなのだろう。しかし、その支援に、支援される側の実状と利益が十分に検証され保護されているのだろうか。「体外胎児」という言葉について意識するまでなく、幼い子どもの育ちとは、本来、母性との完全な関係にこそ可能なことであるだろうし、それぞれに、さまざまな状況があるだろうと考える。だが、その現状は、都市部と農山村の社会環境の違いといったようなことがまったく意識されずに、いたずらに母親たちの保育の知識とスキルアップとを画一的に図るだけの支援策が多いように思われてならない。
 理想を言えば最良の子育て支援とは、かつて、われわれの社会がそうであったように、子育て世代の女性たちが、その暮らす地域ごとに安心して群れ集える状況を整備することではないのかと考える。つまり、これは「子育て世代の女性たちの居場所」を作ることに他ならない。願わくは、先にあげた少年の不幸が、2度と繰り替えされない社会の実現こそを望みたいものだ。

 2「女性たちの場所」を考える。

 しまね自然の学校は営利団体ではない。また、いわゆるボランティア団体という意識もない。他に例がないので説明が難しいのだが、言うなれば、保護者たちとの「共犯関係」にも似た認識の上に、その活動を続けてきた。だけに、自然の中の子どもたちの姿を、その共通認識のために理解して欲しいと考えて、基本的に親子での参加が前提のプログラムを7年ほど前からおこなってきた。
 そして、このステージが、いつ頃からかお母さんたちの、いわゆる「サロン」になった。聞けば、外圧を感じることもなく、競うことも意識しないで過ごせる「サロン」は、子育てや、暮らしの中の様々なことが話題に出来て、楽しくて、また勉強にもなる場所だというのである。この「サロン」が、子育て世代の女性たちの現状やその居場所について考えるきっかけになった。

※アゴの加工場の写真+カンファレンス

・アゴの加工場と「サロン」と。
その「サロン」のことが、意識の中にあったからかもしれない。西郷町(隠岐の島町)の伊後に、島根大学の学生さんたちと集落調査にお邪魔したおりに、「アゴの加工場」に楽しそうに談笑しながら働くおばあさんたちにお話を聞く機会があったのだが、この「アゴの加工場」に、かつてのこうした集落の「女性たちの社会的な場所」と、その女性たちの力が地域に担ってきた役割を理解させられた気がした。

・宮本常一と溝上泰子とベロニカの会
宮本常一が「まな板と包丁を持ち寄って、地域社会をぱたぱたと支えてしまう」と言う女性たちを、自らを「人類生活者」だと言う溝上泰子は『日本の底辺―山陰農山村婦人の生活』に詳細に記す。これは、いたずらに「底辺」と言う言葉にこだわって読むべき書物ではないと、「『田園に豊かに暮らすを考える』女性の会」(通称をベロニカの会)の女性たちの活動に学んだ。
 高群逸枝や宮本常一の著したものに運良く触れる機会を持ち、子育て世代の女性たちがこの国の文化に、どれ程大きく関わってきたのかをそれなりに理解していたつもりでいた。しかし、その認識は甘かった。ベロニカの会のメンバーの家族の中でのあり様や活動の様子を見ていて、その凄い力をあまりにも過小評価していたと反省せざるを得ない。
 男たちは、新たにことを起こすにあたって、まず始めに「金が無い!」「人が居ない!」などと、「止める理由」を探すことから始めるようだ。だけに提言者は、その止める理由を覆すことに消耗しきって、ときに可能性や意義ある企画も潰される。しかし、ベロニカの会のメンバーを見ていると、子育て世代の女性たちは全く違う。子ども達の育ちに関わることや、その帰属する社会に利益があることなら、宮本常一が、その女性史に詳しく伝えるように俎板と包丁を持って寄り集い出来ることからパタパタと全く気負うこと無く、この国の底辺を支えてしまうのである。しかもそこには、独りよがりで中途半端な理論など何処にも無く。事実に即し、あくまで等身大のスタンスに立って、足元にまとわりつく子どもたちとともに実に楽しそうに動いていくのである。つまりは、ここにこそ、子どもたちがその母性とのノンバーバルな関係(コミニケーション)に、そのルーツを体験として学ぶ機会があると言えるだろう。


※ぐるぐるパンを焼こう!+幼稚園の写真


 3「専門家」のもたらす課題と混乱

 しまね自然の学校では、3年前まで、全てのプログラムに「臨床心理士」の女性に、2年ほどのあいだ関わっていただいた。大変に真摯な方であったし、その勤勉な姿勢にも関わる者の大半が大変感銘を受け、当初は、スタッフも「彼女が居てくれると助かる!勉強にもなる。」と、その存在をたかく評価していた。だが、彼女は、一年もしないうちに、しまね自然の学校の幾つかの機能を破戒し、それまでしまね自然の学校に起こり得なかった問題を生み始める。
 まず、彼女のアカディミックな理論の前に、若いスタッフがサポーターとしての自信を失うのである。また保護者も、彼女が関わることで、どこか自己啓発セミナー的な様相を帯びてきた「サロン」を、不参加という手段を持って消滅させた。そして子どもたちの中には、公教育環境における「保健室児童」的な状況が生まれはじめたのだ。しかし、たぶん、これは彼女のパーソナリティーに起因するものではない。しまね自然の学校のようなシステムには、「ファシリティーター」以外の中心を置くべきでは無かったということである。子どもたちの育ちの支援環境に、本来、心療内科の加療行為として発達した「臨床心理士」の正論は、ときに暴力にも匹敵すると理解しておくべきであったのだ。

 「心とは単心にあらず復心なり…」と熊楠は言う。

 「わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)風景やみんなといっしょにせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です」とは、宮沢賢治の「春と修羅」の序の一節である。

 「生きる」とは、その帰属する社会に、あらがい調和し共生して暮らすにほかならない。そこに「知」の理解のためにこそ大切な「耐性」を育めない環境は、なぜ生まれるのか。子供たちの育ちの支援者である者が、もっとも大切なものとして理解しなければならない認識の理解のためのヒントが、この二人の言葉の中にあるのではないだろうか。

 ・「家出体験」のデザイナーは校長先生
 浜田先生から「仁多の子どもたちに『家出』を体験させたい」とうかがったのは綺羅星セブンの交流会の席だった。酔った勢いの冗談だろうと聞き流していたのだが、しばらくしてから仁多小の5年生の担任だという先生が訪ねて来られた。聞けば、夏休みの事業で、仁多からサンレイクまで子どもたちを歩かせると言う。
 ちなみに、この段階で浜田先生は平田の中学校に転任されていて、「万事、しまね自然の学校に話してあるから、相談しろ…。」と言い残されていたのだそうだ。具体的に、どうすれば良いのか分からず、途方にくれているという。睡魔と酔魔のはざまにうかがった話を思い返すに、浜田先生は、その事業に、しまね自然の学校の「おろちの子らの川流れ」を意識されていたとお話ししたのだが、これに担任の先生の混乱はさらに拍車がかかったようだ。だが、川流れのプログラムは、いわゆる「水中行軍」などではない。浜田先生は、仁多から加茂町までの25キロほどを歩いた子どもたちに、(仁多では体験出来ない)素敵なプレゼントをお考えなのだとお話をしたところで、彼は、大変な感銘を受けたようである。
 申し訳ないことにこの担任の先生のお名前を失念してしまったが、その後の彼の努力は大きな評価に値する。彼のキャリアに照らせば、その後のしまね自然の学校からのアドバイスは、ともすると暴力にもちかいモノであったかも知れないと思われる。彼は、これに懸命だった。驚いたことに、勤務の後の夜間や休日を利用して、仁多から加茂町までの25キロを5回も歩かれたという。子どもたちの歩く道筋にどのような危険があり、感じて欲しい大切にするべきモノがどのようにあるかを、自身が体験として理解するためにである。詰まらない言葉など必要あるまい。こういう人物を「真摯な人」と言うのである。
 ともあれ、浜田先生のご見識と、この真摯な先生の努力こそがかたちにした、仁多の子どもたちの体験プログラムは、現代の子どもたちの育ちに何がもっとも大切にされるべきかを明確に伝えてくれる。また、その実践のためにどうした認識が意識されるべきなのかをもである。

※川流れ写真

 ・子どもたちは、「母性」を核とした家族や地域社会との関わりに育つのだ。
 先日、島根日々新聞に、しまね自然の学校の「ワケス(若い衆)」について拙い文章を書いた。「ワケス」とは、しまね自然の学校の生え抜きの子ども達である。言うなれば、「頼もしい次世代」と言うことが出来かもしれない。小学校の4・5年生から参加を始め、高校生になってもピア・サポーターとして関わってくれる子どもたちである。ときに彼らを前に考える。かつて、田舎が「中山間地域」などと呼ばれずに社会として健全だった時代、大人たちは、ことさらに「子育て」など意識することはなかっただろうと。なぜなら、子ども達は、「原っぱ」や「鎮守の杜」など、故郷と呼ぶべき小さな宇宙に仲間たちと群れ遊ぶことで、地域の一員としてのルールや社会性を身につけた。つまり、女性たちの紡ぐ穏やかなネットワークの中に、いわゆる「掌」に支えられた「ガキ大将」の世界に、「次世代としての基本」の全てをである。

※「ワケス」+鷺浦の写真

 4「食わなきゃならん!」のために排除された女性たちの場所と美しい田舎と…。
 竈や囲炉裏がプロパンや、システム・キッチンに変わったことで、確かに、女性たちは家事という重労働から開放されたのだろう。しかし、宮本常一の言う「まな板と包丁を持ち寄って、地域社会をぱたぱたと支えてしまう女性たち」は、その居場所を失ったのだ。これはそのまま地域社会の共同と連帯の場所の喪失にほかならない。女性たちが永い時間の中に緻密につむぎ、この国の全てを支えてきた扶助と相互義務からなる穏やかなネットワークの崩壊が、ここにこそ始まったと言っても過言ではないだろう。また、ここに子どもの育ちの環境を意識すれば、更なる課題が見えてくる。つまり、ともに食べ暮らす「我が家」の中心に「母」としていた女性たちは、あたかも使用人でもあるような単純な「調理する人」に変えられてしまったのだ。
 母に抱かれつつ炉端にうどんを捏ね、かぼちゃを切った、子どもたちの美しく大切な体験の機会は過去という記憶の中に封じ込められてしまったのである。こうした事実について、確認し議論する意義はないのだろうか。

※炉端の写真+

 ・出雲一中の子どもたちが学んだもの
 「竈は凄い!。60人分の食事が、一時間で作れてしまった。」
これは出雲一中の総合的学習の時間に、しまね自然の学校の「焚き火小屋」に、初めて「かまど」を体験した子どもたちの感想である。自分たちが、その日々を過ごす環境から、自転車でわずかに40分足らずのところに、質高く、美しい故郷の過去があったことに驚きを持って過ごした時間であったようだ。環境学習という言葉でも、ふるさと教育という言葉でも、言い表しきれない豊かな体験の時間を過ごしたようである。彼らの中には、荒れ果てた里山に、半ば「土くれ」と化してはいたが、かつて、丁寧に積み上げられていたのだろう大量の「薪」山を前に、涙ぐみ、座り込んでしまった少女がいた。「将来、ハイブリットな環境について考える学者になりたい!」と言う少年もいた。こういう言葉を、大人たちは、どういう痛みを持って理解するべきなのだろうかと考える。

※出雲一中の写真

 ・いわゆる「田舎はデザイン」された。
 地主さんのおばあさんが、「まや肥」を動かしたいと言ってきた。「まや肥」とは、牛糞を数年をかけ熟成させた「畑に最良の有機肥料」である。美しい畑の中に、簡単な木枠に囲われてそれはある。聞けば、しまね自然の学校がここに活動を始めてから、畑の中に「まや肥」があることが「不快ではないだろうか?」と、ずっと気にされていたのだと言う。 しまね自然の学校の拠点は上津にある。野菜畑の中にそれを見出しても、大半の良識ある大人は、上津の野菜が安全で美味しいその理由を当たり前に知るに過ぎないだろうし、子ども達にしても、当たり前の風景に、当たり前にあるものに驚きはしない。おばあさんの想いに「戦後の復興期に向都離村を加速させるために歪められデザインされた田舎」の存在を感じさせられた。

『まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、西瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である』。

 イザベラ・バードの有名な一節だ。この著名な女性探検家は1878年(明治10年5月)にこの国にやってきた。彼女は、当時開けていた横浜や東京ではなく、まだ西欧文明の及んでいない日本の姿を見ようとする。そのために西洋人未踏の地である東北、北海道に向かって歩き始める。その見聞を記したのが『日本奥地紀行』(原題「日本の未踏の土地」)である。イザベラの文章は、人は「勤勉で、素朴で、礼儀をわきまえている」と続く。現代の日本人は、これを、どう感じ理解すれば良いのだろうか。

※上津の風景

 4目に見えるかたちとデザインと…。
 ・津和野の森に子育て世代の女性たちの居場所を仮設してみたら…。
 津和野の野中の森に、子どもたちの木登り体験の支援を頼まれたおりに、そのお母さんたち、つまり30代前半の子育て世代の女性たちに、「田舎に暮らす」心地良さについて聞いてみた。ただ、単なる聞き取り調査ではない。木漏れ日が落ち、爽やかな風が吹き抜ける森の中に真新しい杉板を並べたウッドデッキを作り、イタリア製のデザイン・チェアーを用意して、英国風のティータイムの風景を意識したデザインの中にである。
 思いもしなかった状況が起きた。それまで、無口に、子どもにべったり張り付いていたお母さんたちが、それぞれ、子どもたちをしまね自然の学校のスタッフにあずけて襟を正してテーブルについてくれたのである。つまり、しまね自然の学校の「サロン」に似たものが生まれたことになる。ちなみに、聞き取りを担当した者は、島根県中山間地域研究センターの地域研究グループの主任研究員である。彼曰く、これほど心地の良い聞き取り調査など過去に経験が無かったそうだ。また、お母さんたちも、津和野の美しい森を楽しみながら大変心地良い時間を過ごすことが出来たと喜んでくれた。

※野中の写真

 ・「田園の結婚式」に触発されて…。
 万事に控えめな女性であった。ときに、向き合うこちらが苛立つくらいに自身の思いを言葉にしない…。しかし、そういう自身をどこかで恥じている。その彼女が、現在、「『田園に豊かに暮らすを考える』女性の会」の、いわゆる「世話する人」として、上津の若いお母さんたちの中心に様々な活動を展開している。聞けば、全ては野外体験産業研究会が、3年前に、彼女のお母さんの畑をお借りして実施した「田園の結婚式」に起因すると言う。ちなみにこの結婚式は、その畑の美しさに感動した野外体験産業研究会の若いメンバーが「ここで結婚式をしたい!」と言ったことがきっかけになって、その全てを仲間たちが手作りした結婚式と披露宴である。
 まるで「夢」でも見ているような不思議な思いがしたそうである。彼女の言葉をそのままに借りれば「我が家の畑…。家族の健康や、家計をも支えてきた母の畑…。近い将来、自分が引き継がなければならないと理解はするが、具体的にどうして良いか分からずできるだけ近寄らずに過ごしてきたその畑が、とても素敵な結婚式場に変っていた。自分の未来のがここにある!。」と感じたのだと言う。
 しまね自然の学校の『倶楽部はうす』の焚き火小屋が彼女たちの活動拠点である。畑の中の結婚式に教会に仕立てた元は大きな納屋だった建物をベースに、薪を大量に積み上げた壁を作り、「泥壁」に、「ポリカーボネート」とステンレス風に仕上げた金属の角パイプをデザインして、近未来を意識した、しかし田舎ならではの美しい空間に仕立てた。そして、ここに、これも手作りされた「竈」と「来待石のファイヤーブレース」が据えてある。ベロニカの会は、この施設と、その施設を取り巻く上津ならではの美しい畑の野菜を素材に「ワークショップ『田園レストラン』」という、その将来に「業」をも意識したプログラムと「ぐるぐるパンを焼いてみよう!」など、地元の子どもたちを対象にした体験教育事業をメインに、自分たちのポジションを大切にした活動を行っている。

※焚き火小屋+ベロニカ昼食会など

・思想と言うべき思いである。
持続可能な社会が意識されるときに、良く言われる言葉に「内発的発展論」がある。地域の環境との関わりを大切に、誰にでも出来る程度の技術を意識して、関わる全ての人々が心地良いと感じられることを優先し、地元にこそ利益ある社会的発展を考えるべきだと言うことである。彼女たちの立つ位置は、まったくこの「内発的発展論」の理に叶う。だが、彼女たちにそうしたことを伝えても帰ってくる言葉はいつも同じだ。「私たちは、自分たちの上津での暮らしを心地良いと感じたいのです。そして、大切にしたいと思えることを子どもたちに伝えたいと考えているだけです。」と返ってくる。そして、一人だけでは出来ないことが、ベロニカの会と、この焚き火小屋と言う大切な場所が生まれたことで可能になったと言う。
 思想と言うべき思いである。デラシネな都市の暮らしには生まれ得ない、その「生きる」に、ルーツを意識できる者のだけが持てる社会観と言うべきか。しかし、これは、いわゆる専門家や学識経験者などといった人々の小賢しい知識に基づくものではない。ともすると「学習に学んだモノ」でもないのかも知れない。それぞれがその居場所を感じることが出来て、自身を大切にできる環境に当たり前に発動する。「子育て世代の女性に特有の内在する力に因る」と理解すべきモノであるだろう。

 5簡単な総括
 
 子育て世代の女性たちには「支援」ではなくて「居場所」が必要だということだ。そして、その居場所は、彼女たちが、「その暮らす日常の中に、価値観を共有出来る同じ世代と、心地良い時間を共にできること」が意識されデザインされるべきだと言うことだろう。こうした場所を持った女性たちは、本来、彼女たちに「内在するの力」を発動する。かつて、われわれの美しい社会は、この女性たちの力によって支えられ運営されて来たといっても過言ではないと理解されるべきである。子どもたちの育ちも、地域経営も…である。
 島根は、ある意味この国の最先端にある。だとしたなら、島根のような環境だから運良く残されたこの社会力ある女性たちの存在を確かなものと意識して、その力を社会に取り戻すことに真摯にあるべきだ。持続可能な未来のために、次代を担う子ども達の健全で豊かな育ちの環境の再構築のためにも、かつて、この国を育み、その底辺を支え、持続可能な社会足らしめた女性たちの力こそを、次代のニーズに沿わせデザインし直し、大切なものと生かすことこそを「我々がしなければならないこと」と、いま考えるべきである。

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※20080801隠岐地区教育懇話会講演原稿
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