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このスピリチュアルなもの…  
大変に貴重な写真をありがとうございます。フルスクリーンで拝見させていただいて、自分がどれほど無礼な願いごとをしたのか、あらためて解しました。

何年も前から、この壁に関わる思いが自分の中にくすぶり続けていました。このスピリチュアルなものがなんなのか、自ら俯瞰するために、文字か、それともディティールなのかすら決めかねていたにもかかわらず、なにか目に見えるかたちにまとめてみたいとずっと考えていたのです。これが、日々に追われて、これまでならずにきました。

ここに貴君の「西壁」の写真に大きな刺激をいただきました。また、少し大げさに聞こえるかもしれませんが「明星山P6南壁」は、考えて見れば、自らの「我が青春の山々」そのものなのです。歓喜と、狂気にもちかい混乱が同時にあった、忘れえぬ場所でもありました。

時間が30年ぐらい逆流するような思いの中に、ただただ呆然としつつ拝見しました。そして、こころの中に、この30年にわだかまっていたものが解けた気がしました。これを書き記すことに意味などないかも知れません。しかし、ここに生きた者に「与えられたこと」と解して、するべきことがあるのかも知れません。

自らの climbing への思いと「壁」という「場所」に感じているものについて、ささやかな文章にまとめたいと思います。

これが、貴君の「西壁と南壁」の写真を見つめながら、自らが出せた結論です。

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「…太古の雫が「した した した」と垂れる塚穴の底の岩床にめざめたのは、死者である。この死者は射干玉(ぬばたま)の闇の中で徐(しず)かに記憶を呼び戻し、かつての耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかける。…」

折口の『死者の書』などを気取るつもりはない。ただ、この壁に逝った者や、森や、黒沢あたりとゆめまぼろしの中に宴して…。今朝の「目覚め」は、この壁の記憶が「した した した」と、垂れるかのようなのだ。

明星山P6南壁左フェースルート…何ピッチ目だったかなどとうに忘れた。ある新人がこのルートで身動きできなくなって、この写真が撮られたあたりに、ハイビームにした車を数台並べ、その明かりで降ろしに行ったことを思い出した。その前の年の秋に、なにをとち狂ったかソロをして落ちた者がいて、自分は、そのメモリアルルートを右ルンゼF1から右石稜に繋ごうと開拓していた。

ちなみに、その左フェースルートのトラブルの翌年には、このメモリアルルートの開拓にかかわった者が、右ルンゼF1の正面ぐらいの林道から車ごと数十メートルを落ちて…。このとき、自分は、右石稜から長谷川さんのフランケに繋ぐルート(これは『岩と雪』の「日本のビックルート24」に掲載した)を登るつもりで壁の中でビバークの準備をしていたのだが…。結局、右ルンゼF1 のラッペルを終え、この若い仲間を見つけて深夜の小滝川の流れに翻弄されながら、そのむくろの搬出ができたのは朝方だった。

「おかのさんでしょ…!助かった…!!。」

彼は、この耳に生涯消えることなどないだろう、最後の言葉を残してくれた。我が、なすすべもない腕の中に…!。

この世に「神も、仏も、『善』も『邪悪』さえもあり得ない!」のだろうことを知覚した。ただただ「事実」だけがあるのだと理解したのだ。そして、「事実とは、なにか…!」について考える意義についてもだ!。

しかし、思えば、この明星山P6南壁には、常に、歓喜と狂気が同時にあった。

はじめてこの壁に触れたのがいつだったかなど、覚えてもいない。しかし、谷川や穂高など、それまでホームグラウンドにしてきた山々のそれと違って、信じられないレベルのフリクションの凄さに歓喜した秋の半ばの記憶が残る。

また、厳密に言えばここもそうだと言えるのだろうが、日本の岩場は、一部をのぞいて大半が沢の側壁である。だけに、そのアプローチが長かったり、重装備になりがちな登山的要素が強かったりするのだが、この壁はちがった。車を使えば、キャンプサイトに出来そうなところに着いて、すぐ目の前に壁があるし、鉄道を使っても大糸線の小滝の駅から瀬野田の集落を歩いて一時間程度なのだ。つまり、他のクライミングエリアと違って、「アルピニズムの概念」という呪縛から開放され、カウンターカルチャーとでも言うべき新しいクライミングのためのステージ足り得たのだ。

時代もまた、その新しいクライミングのムーブメントに味方した。わたしは、この明星山の岩場に、いわゆるアルパインスタイルのクライミングのツールを持ち込まなかった。つまり、意図的に、ハンマーやハーケン、そしてクライミングブーツさえをも、この壁に使うことを嫌ったのだ。そして、これは別段、当時のメディアが好んで使っていた、いわゆる「ヨセミテ派」などを気取ったわけではない。この壁の、石灰岩に特有のフリクションの凄さに魅了されたからにすぎないのだ。また、国内のほかの岩場に未だ知られていなかった「クラック・クライミング」の楽しさも、心地良かったのだと記憶する。

そして、たぶん、こうした新しいクライミング概念を持って、はじめてこの明星山に開かれたルートは、わたしが、二人のパートナーとともにP2西稜末端壁に攀じった「フラートス・ウェルヌス(春の息吹)ルート」だと記憶する。(いかなる理由か解らないが、現在、このルート名が「春の息吹ルート」となっているが、われわれがつけた名前はラテン語で「春の息吹」を意味する「フラートス・ウェルヌス」なのだ。ちなみに、命名者は「生と死の分岐点」の訳者としても著名な黒沢隆夫だ。もっとも、すでにその和訳が定着しているのにこれに混乱を招くような馬鹿げたことは意識しないが、正式にはそうなのだ。)

ちなみに、このルートを初登したとき、下部のフェースに残置されていた古いリングボルトをのぞいて、いわゆる「プロテクション」にボルトやハーケンの類はまったく使っていない。「プロテクション」はすべて、当時のショイナードのヘキサゴンやTチョックの類だ。ただ、核心部のクラックを終了したところと登攀終了点に、登攀の証明のために計3本を残置した。

われわれが、こうしたクライミングスタイルを選択した理由は、1970年代、ロイヤル・ロビンスらによって提唱されていた「クリーンクライミング」の持つ自由度にどこか強い憧れを持っていたからに違いない。しかし、そうした憧れを実践し得たのは、この明星山に、さきにも記したように、新しいクライミングのためのフィールドたり得る状況があったからに他ならない。

ともあれ、結果として、この岩場で、その精神性はどんどんフリーになっていく。そして、そうしたムーブメントに決定的な結果をもたらしたルートは、明星山の正面壁とも言うべきP6南壁に、「森徹也」らが開いた「フリー・スピリッツ」と「マニュフェスト」であるだろう。

ちなみに、「森徹也」は、わたしにすれば弟子とも、弟分ともいうべき存在なのだが、そのクライミングスタイルは、わたしのそれとはまったく違う。彼は、わたしの影響から脱したあとに、モンブラン山群の「フー針峰南壁」や、イタリアの「マルモラーダ」の石灰岩地帯などでのクライミング体験を通して、言うなれば、アルピニズムを否定したヨーロッパの新しいクライミングの影響を強く受けるのだ。

そして、その結果が、当時のこの国のクライミング界に、現在のフリークライミングという概念を発生させる一つの起点をなした「フリー・スピリッツ」と「マニュフェスト」というルートを攀じらせたのだ。つまり、彼にも、そのクライミングの原点がこの壁であったことに大きな意味があったのだ。

彼は、この二つのエポックなルートの登攀のあとに、そのクライミング活動の大半を停止する。彼自身が語ったわたしの記憶が正しければ、それは大学卒業後の就職にあったはずだ。彼は、モンブラン山群とマルモラーダの体験のさきで、自らの人生の舞台を、この国の中ではなくて世界に向けていた。事実、その後に、コンピューター関係のビジネスマンとして10数年を米国に過ごしている。

ともあれ、彼のそうした決断に、わたしは生かされたようだ。

森が、「フリー・スピリッツ」を意識したころから、わたしは、彼とザイルを組むことを止めた。これは別段、さきに記したクライミングへのそれぞれの思想の違いが影響したわけではない。どころか、これを言葉にしたわけではないのだが、わたしは、彼にクライミングを止めて欲しかったのだ。なぜなら、彼に死んでほしくなかったからだ。

当時のわたしのまわりには、多くの遭難が続いていた。にもかかわらず、森は、そのクライミングの難易度が徐々に上がっていた。

わたしは、その所属する同人で、彼らのチーフリーダーでもあったから、山に行く前にはかならず彼から電話が入った。これに「おおぅ…!。」と答えながら、じつは、次に彼の声を聞くまで眠れぬ夜を幾夜も過ごした。

だけに、就職のためにしばらくクライミングを止めると彼が言いだしたとき、救われた気がした。そして、その後に、わたしは自身のクライミングのすべての道具を森に託した。「そろそろ真面目に働こうと思う!ついては金が欲しい…!。」と、その処分を頼んだが、彼は、腑に落ちないものを感じたようある。

これは確かに、二度と山に戻るなと言うのわたしの彼へのメッセージだった。

ともあれ、これでとりあえず、わたしは「明星山P6南壁」の悪夢から開放された。そして、数年のあいだ、自身もクライミングから遠ざかったのだが、同時に、小さななにかが自身のこころの中に生まれてしまっていたようだ。

そして、課題はこの「なにか…!。」なのである。

ともあれ、自身の記憶のこの壁に関わることを整理もせずに、ざらっと流せばこれまでのことである。

これらを「封印した!」つもりだった!。

しかし…!。

「人は、その感じ知る他者との関わりに生きている!。(ちなみに、この他者とはいわゆる「人」であるとは限らない…。)」

こんな一文を、新聞のコラムだったか講演資料だったか、ともあれ、なにかに書いた。そして、書いたところで、ふと感じたのが、「なぜ自分はこんな考え方をするのだろうか!?。」ということだった。事実を事実をして捉えることに意義あることは理解していたつもりだが、意識もせず、この当たり前を言葉にする理解を、自分はどこに学んだのだろうと考えたのだ。

ある年、フランスに古い知人を訪ねた。バルチゼールというスキーリゾートで賑わう田舎町の初夏のころだったが、3ヶ月ほどを居候するうちに、知人が、わたしをクライミングツアーに誘ってくれた。

北イタリアの「マルモラーダ」に…!。

「明星山P6南壁」の大岩壁を無尽蔵に連ねたように、しかし、モンブラン山群のそれとまったく違う風景に圧倒された。しかし、とてつもなく明るいその風景に、かつて森が感じたものを理解した気がした。そして、同時にこれは、森の「スピリチュアルなもの」を理解しないままに自身の思いを押し付けていた自分の存在の気づきでもあった。

「懺悔だな!。」という思いと、では、あの「壁」への自らの「スピリチュアルなもの」とは何だったのだ!という疑問が、新たな「なにか…!。」に姿を変えた。

フランスから戻ってすぐに、幾つかの花束を持って久しぶりに「明星山P6南壁」を訪ねて、数日を過ごした。遠い記憶の壁の中に、点景となった自分がいた。

この「スピリチュアルなもの」について、未だ解することが出来ないでいる。ただ、そのなにかに揺さぶられるときには「ここに来れば良いのだと…!。」理解した。
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