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「孟宗竹」 
この夏の天候の不順は思わぬところにも影響していた。秋の夜長の楽しみのためと、そろそろ伐りどきであることを意識しつつ、竹細工の準備に刃物類の手入れや、昨年に作り残したものなどのチェックをして唖然とさせられた。材料も含め、下ごしらえをして置いたものの半数ぐらいがびっしりとカビていたからだ。

旧暦の十五夜を過ぎた頃から、十月半ばぐらいまでだそうだ。

「竹を伐る」に適した時期の話である。

古老たちは譲らない。

あるイベントで使用するために、どうしても十五夜前に竹が欲しかったのだが、その頑なさ故に手に入らなかったことがある。ちなみに、その半年ほど前には、同じ古老に2tトラックに満載するほどの竹をご用意いただいているのである。あたまを抱えて帰ってきた使いの者は、老人の「偏屈」と「気まぐれ」とを口にしていたが、これは大きな間違いである。

田舎に暮らすとは、「作り、創ること」である。環境との関わりに学んだ知恵を持って、衣を作り、食を作り、住を作り…。暮らしの知恵とは、生活を創る知恵を言うのだろう。そして、その理解のために、「感謝」と「無駄を生まない姿勢」こそが必要なのだ。

必要なら感謝しつつ待つべきなのである。自然の摂理も意識せず、無駄を思うこともなく「季節ハズレに望む方がおかしい」と言うことである。

ともあれ、古老たちの言うように、かぐやの頃を過ぎて伐った竹は不思議に素材としても安定している。写真のピッチャーは、その伐りどきの理にかなっていたようだ。他の幾つかがびっしりカビていた中に、とりたてて対策などしていなかったにもかかわらず、これだけがなんともなかった。

スプーンやピッチャーなどは、この素材の直線的な資質にしたがう古来からの竹細工と違って、それらとギリギリのバランスを図りながら研ぐように削り出す。そうすることで、この素材ならではの「清浄感」と相まったシャープで美しいフォルムが生まれるからだ。

今日も、焚き火小屋にゲストがあった。ここならではの体験と、Veronicaさんのこころ尽くしを楽しまれたのは出雲市内の女性たちのグループだったのだが、茶席に例えるなら「仲立ち」とも言うべき時間に、この竹のピッチャーを観ていただいた。また、Veronicaさんのこころのこもったスープには竹のスプーンをお使いいただいたのだが、ともに嬉しい感想をいただくことができた。

だが、しかし、喜んでもらえて、それで「嬉しい!」だけで終わりたくはない。また、来月あたりから、昨年と同じように竹細工のワークショップを企てているのだが、これにも同じ理由がある。

なんとかして竹の、とりわけ「里山の孟宗竹」の、いまだ価値あることを大勢の人々に伝えたたいと考えるのだ。

都市に暮らしていれば感じることも意識することさえ難しい。しかし、里山は荒れている。とりわけ手入れがされないために広がり続ける「孟宗竹」の被害は深刻だ。そして、その最大の理由は、「竹は、決して腐らない!」ことにある。

折れもせず、立ち枯れて割れて倒れた竹は、そのままそこに薮蚊やブトなどは言うにおよばず「ツツガムシ」や「日本赤斑熱」など、さまざまなリケッチア系の感染症の温床をも作りだす危険に溢れている。つまり「荒れる里山」は、ただただ原生の森に回帰するだけではなくて、そのプロセスに、都市に暮らせば思いもよらない社会的障害を引き起こすのだ。

その最良の対策は、かつて「里山」を地域の人々が「徹底的に利用した」ように、そして、その結果として「美しい里山」があったように、ただただ「手を入れる」ほかに無い。しかし、そのためには、「里山」の資源としての価値の再発見をする以外に可能性などないだろう。

嬉しいことに、スプーンもピッチャーなども、それなりに経済活動につながる評価をいただくことが出きるようになってきた。

この秋の課題は、これをどうしたら具体的な産業に結びつけることが出きるか、考えることであるようだ。

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