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所有する意識… 

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一昨日の記事、「「蹴る鳥」は言う!。」に、「風音さんって、よほどひどいジジイなんですねェ~。」というメールが来た。むろん、差出人は、当の本人である。

これに、「いや、まったく(こんな記事を書いてしまって…)今夜、うなされそう…!。」と返信をしたところで、電話をする気になった。

彼の理解の中の「蹴る鳥」の"なにものかを「所有する」意識について”聞いてみたいと考えたからだ。いわゆるインディアンの、自然やモノや、隣人たちへのスピリチュアルなものに基づく認識とでも言えば良いのだろうか。

「代表は、子どもらは「ノンバーバル」だってよく言うじゃん!!。あれだと思うんだけど…!。インディアンは、言葉以外の表現を大事にするって知ってた…!!。」と、いきなり返ってきた。

ノンバーバルとは非言語表現、もしくは身体言語とでも理解すればよいのかも知れない。われわれは、誰かに向き合うとき、言葉を使って伝えられるメッセージ(コミュニケーションの内容)は、全体の35%にすぎないのだそうだ。残りの65%は、話しぶりや動作、ジェスチャーなど、言葉以外の手段に頼るのだという。

しかし、さまざまな煩雑さを避けるために、ある意味「関係構築のためのシステム化」とも言うべき状況が高度に整備された現代社会に、じつは、これが見え難い。いわゆる「名刺の交換」などによって、初対面の人々が、「あるレベルの関係をすぐに共有できる」ことなどを想像すれば、これは理解できるだろう。

では、「名刺を持たない子どもたちの場合」はどうだろう。現在のこの国の公教育環境は、子どもたちの誰にでも宿るこの能力を徹底的に禁じ無視するかのようである。だが、じつに、これが多彩なのである。いや、多才と言うべきか!。

目線、思わせぶりな態度、触れ合いやじゃれあいに、ときに取っ組み合いのケンカなどなど…。

インディアンの身体表現は、子どもたちのそれよりも、いわゆる「手話」にちかいのだそうだ。「あの映画の中では、両手の人差し指をアタマに角のようにかかげて「バッファロー」を意味する表現として使われていた!。」と彼はいう。また、そうした非言語表現ともいうべき手段が、なぜインディアンに必要だったかについては、「結局、さまざまな部族がいて、交易・交流が必要だったからだろう」と…。

「彼らは、あの広大な北アメリカ大陸を狩猟採集し移動するんです!。しかし、つまり「土地」や「場所」を所有しないんですね!。」と、彼の話はつづくのだ。スピリチュアルなモノが宿る「大地」や「風景」などは、誰かが所有することなどできないものだ!。そして、その天啓とも言うべきものにすべてを委ねて生きるインディアンたちには、断じて、そこが「誰かのモノ!」などであってはならないのだ。そこは、すべての人々が、自由に関わることを許される場所であるのだ。

さらに、その「場所」や「モノ」に宿るスピリチュアルなものを大切にする彼らは、部族によってはその言語までを「男言葉」と「女言葉」を分けるのだそうだ。このさきに、「場所」や「モノ」への畏敬から、「部族の言葉を外部の者に押しつけない!。」のではないかと彼はいう。

結果として、どの部族にも通じるノンバーバルとも言うべき身体表現が生まれ、いまだ伝えられるのだろうと…。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』という映画は、この辺りのことも正確に描写されていて好きなのだという。

本多勝一の「殺される側の論理」という本を読みたくなった。

目次の後に、「母親に殺される側の論理」というじつに過激なタイトルの文章が、いきなりはじまるこの哲学について、わたしごときが言葉になど出きるものはない。しかし、しまね自然の学校という子どもたちの育ちの支援団体の主催者として、生涯、その座右に置くべき一冊として、その内容を暗証するレベルに読んできた。

風音さんが伝えるインディアン魂とも言うべきビジョンに、この本多勝一の哲学が重なるのだ。

スピリチュアルなものへの畏敬から「所有する」という認識が、(インディアンのそれが…)われわれとはずいぶん違うことが理解できた。この立つ位置とでもいうべきものは、本多の文中から言葉をそのままに借りれば「意味される側の論理」と言うべきものを必然として解するものだとで考えるべきなのかも知れない。

「持たない」から、「モノ」に縛られない!。そして、縛られることがないから、次世代や隣人を縛ることがないのだろう。そして、この単純にして崇高なロジックに基づくものは、「大地」や「風景」や、「モノ」に宿るスピリチュアルなものを認識として共有することでのみ可能になる。

「わたしが居るように、お前も居る!。そして、お前が居るようにわたしも居るのだ!。」という単純な、そして、理想的な論理がだ!。

自然の中の子どもたちは、その遊びの難易度が高いとき、けして、彼らは争わない!。どころか、大半の場合「ここまで、できるのか…!。」と大人たちがおどろくレベルに協力し合い助けあう。そして、そうした彼らがトラブルをおこす理由は二つある。一つは、新しい友人を理解しようとするプロセスにおこるものだ。つまり、互いを知るために「ちょっかい」をだしたり、「からかう」ことから、ケンカになったりするのだろう。そして、もう一つは、この子どもたちの環境に、「意味される側の論理」を解せず、優劣だけを決めたがる無自覚な大人が介在するときなのだ。

「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さえこそ動がるれ」

「梁塵秘抄」の有名な一首である。この歌の作者は平安時代末期の遊女だとも聞く。しかし、その内容はどうだろう。遊びの中の子どもたちをあるがままに捉え、これに感応して心地良くなる自身をもあるがままに解して受け止めているのだろう。この一首が詠まれた平安という時代は、子どもたちが遊ぶ「場所」や「風景」に、いまだ、そのスピリチュアルなものが大切にされ、その存在にさまざまなことが意識されていたのではないかと考えてしまう。

ともあれ、どのような状況にあるにせよ、子どもたちの育ちに立ち会う大人たちに、とりあえず、この辺りレベルの理解ぐらいは心得て置いて欲しいものだ。「お前のためだ!。」などと言う自分勝手に殺されたら、子どもの側はたまったものじゃない…!!。

写真は、わたしが数年前に作ったナイフだが、そのデザインの原型は1836年3月6日テキサス革命の最中にアラモの戦いで戦死する「James Bowie」のフロンティアスピリットにあふれたハンティング・ナイフに由来する。デザイン的に見ればビンテージと呼ぶべきものにちかい。

現代の暮らしには、まったく必要としないものだ。わたし自身、これを野外に持ち出すときは、しまね自然の学校のキャンプの調理の場ぐらいにしかあり得ない。あとは、自宅でパンをカットするとか、皮細工などにカービング用に使用するぐらいなのだ。

しかし、この古典のスピリチュアルなものはどうだろう。

ダブルヒルトをシングルにして、ブレードをデザインコンセプトに沿わせてぎりぎりに詰めているのだが、これはこのままテキサスの大平原に置かれても、まったく揺らぐことなどないだろう。

誤解しないことだ!。スピリチュアルなものの宿るナイフは、けして争いのためのモノなどではないのだから…。
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