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即妙なるもの… 
鄙びた土蔵の美しい写真に「…朦朧としたほのかな明かりの中でこそ、…素材感の深みがはじめて見えてくる。…」という谷崎潤一郎の『陰影礼賛』の一節が思われた。

近代的な合理主義は「視覚」に重きを置きすぎている。だから、すべてのものを"白く、明るくして清潔感がある”などという。だが、われわれ日本人の生活の豊かさは“視覚”だけではない。他の四感も使って感じる世界を大切にしたい。触覚、聴覚、味覚、嗅覚。陰影の中でこそ、それら四感が研ぎ澄まされるのだと、谷崎はいうのだろう。

また、そこから、『山姥』や『旅涯ての地』の著者として知られる坂東眞砂子の描写する"古い建築の陰影に封じこめられた神秘的で美しい情景”をも思わされた。白壁と(ここでは土壁だが)軒のひさしの間のうっすらとした闇に潜むものや、日差しに照り返る白壁に穿たれた連地窓の中の漆黒の世界など、建築を学んだ坂東ならではの絶妙ともいうべきものを連鎖したのだ。

この写真をご自身のブログにアップされたVeronicaさんの文章には「…蔵の中にあるものは、ほとんど使わなくなったもの、でも捨てれないものだった。子どもの頃、ここは不思議な場所で気軽に入れなかった。…」というくだりが出てくる。これは、なにを意味するのだろう。

彼女の文章の「ほとんど使わなくなったもの…」の前に「いまでは」という言葉を入れてみれば、その意味するものの片鱗ぐらいは見えてくるようだ。しかし、子どもたちに、気軽な出入りを許さないものとはなんだろう。温度や湿度をたやすく変化させないために、小さな明かり窓がうがたれただけの非日常的空間に宿るものに、子どもたちは、ただただ怯えただけなのだろうか。そして、大人たちは、子どもたちの育ちの支援に、こうした空間ならではの感覚的なものまでを、意図して活かそうとしたのだろうか。

ともあれ、これは「在ること(もしくは、有ること)」への感謝をわすれ、その暮らしに大切な「文化」とも言うべきものを次世代に伝えることをわすれてしまった現在のわれわれの時代への「警鐘」とも捉えるべきことであるようだ。

また、この土蔵は、我が朋友、有田昭一郎がイヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティーのための道具」という認識の先に、この国の持続可能な未来を意識して最近よく口にする「ヴァナキュラー・ベース・デザイン」という言葉をも思わせる。本来的に、その暮らす風土や風景との関わりに生まれ育まれる暮らしに必要なものとは、個人の消費の対象としてだけ捉えられるべきではなく、「親から子へ、子から孫へ」と伝承できるレベルのその暮らす環境との関わりに根ざしたデザインこそが大切にされるべきだと言うことだ。

その後に、Veronicaさんの文章には、現代という時代に切り捨てられ取り壊されることの多い「この土蔵が、なぜ彼女の家に残されたのか!」について、さらっと続くのだが、ここには、フランスの著名な建築家「ル・コルビュジエ」の「La pauvrete est une richesse 〈貧乏は一つの富なり〉」という言葉が思われる。

ル・コルビュジエのこの言葉について、インド人建築家バルクリシュナ・ドーシは、「(人々は)少ししか物をもたなければ、創造的になっていくということを、コルはここで発見した。インドは、経済的には貧しいが、文化は豊かである。人々は乏しい物からいろいろなことを発見する。住居は土でつくられ、適応性に満ち、豊かで、コルを非常に惹きつけた」と、語るのだが、Veronicaさんの文章は、それを逆説的に理解するべきものであるのかも知れない。

ともあれ、「…土蔵のどっしりとそして優しい姿に、なぜか心が落ち着く…。壊さなくて良かった。迎えてくれる風景があるのは、とても幸せだと思う。…」と綴られた彼女の文章に、この美しい写真をアップしてくれたことへの感謝と、すこし羨ましいものを感じさせられた。
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