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さくらがさいて… 
天窓を大きく開けて、秋らしい気配の深まりつつある碧い空をながめていて、絹雲の掃くように流れる白さに思いだした。

焚き火小屋に転居してから、この時期に楽しみにしている「桜」をである。ちなみに、秋の桜といっても、いわゆる「コスモス」ではない。地主さんに伺えば、植えられてから、そろそろ30年近くなる江戸彼岸系の「桜」であるらしい。

春先、染井吉野などより少し早く、清楚で小ぶりな淡紅色の一重の花を美しくつける。だが、たぶん、昆虫の食害によるのだが、夏の終るころには、この桜には一枚の葉もなくなってしまうのだ。これが、秋の気配がすこし深まりだすころ、まるで昆虫との戦いにサバイバルするかのように、新しい芽吹きをはじめる。そして、この種の植物の必然なのだろう。その芽吹きのまえに、美しく清楚な花をもう一度つけるのだ。

天窓から乗り出して眺めてみれば、白い花が二つ三つ…。やはり、美しい花があった。

植物に詳しいわけでもない。だけに、その理由は解らないし、ここの木に固有のことかも知れないが、この時期のこの花は、春の季節のそれよりも、なぜか不思議に大きく白くなるようだ。

はじめてこの秋の桜に気づいたとき、一枝を手折って、ある知人のところに届けたことがある。知人は花の好きな方だったから、当然、大喜びをしてくれるだろうと考えたのだが、意に反して、その反応が違った。これに、不満からではなかったのだが、「なぜか!。」と聞いてみた。

曰く「だって、これって狂い咲きでしょう…!。」と返ってきた。

たしかに「尋常ではない状況に咲いた花」ではある。しかし、これは、本物の美しい「桜の花」であることにかわりはない。正直に言えば、知人のそうしたものへの冷淡とも思える反応に少しおどろいた。

いわゆる「異端と言うべきもの」を拒絶する感情のようなものにである。

しまね自然の学校のこれまでの活動に関わる資料が整理されたファイルラックに、一冊の黒いファイルケースがある。「処分しようか…!。」それとも、しまね自然の学校の歴史の一ページとしてこのまま保存しておくべきかと、この数年、見るたびに考える黒いファイルケースである。

十年ほど前、しまね自然の学校には、「不登校」の子どもたちに関わる相談がずいぶんあった。主催事業のないウィーク・ディに、事務所に顔を出して、お茶する間もなく電話が鳴って、それがそのまま夕刻まで続くといった状況が、ときに週の大半を占めたこともあった。

現在ほどに、(いや、本質的なことを言えば、現在でもその状況に変化はない)こうした子どもたちの置かれる状況が社会認知されていなかったからなのかもしれないが、その保護者の思いや苦悩は、筆舌にあらわし難いものがあったのだろう。だけに、そうした相談というか、愚痴や嘆きにちかい電話が途切れることがなかったのだ。

当然かもしれない。当時、よく耳にした「お母さんが、頑張って…!!。」という言葉がすべてをもの語るように、教育行政も含め、当時の公教育環境には「不登校児童」という「ラベル」を張ることをしても、その対策のための認識やスキルなどまるで無かったろうし、どころか、ともすると「自らが理解していない」という認識さえも無かったのかもしれないのだから。

スクール・カウンセラーの配置や、子どもたちの「居場所」づくりなど。また、保護者が学校と親密な関係を持つことが出きるように配慮する機会を考えるなど、教育行政は懸命である。その結果が、どのような方向に向かうのか、未だ計りかねるものがないではないが、それでもこうした社会的なムーブメントが現在のように目に見えるようになった背景には、この"嘆き、苦悩し、苦しんだ大勢の子どもたちとその保護者の存在があった”のだろう。

黒いファイルケースには、そうした子どもたちと、その保護者の血を吐くような思いに満ちた言葉が詰まっている。

「桜」などの落葉樹は、落葉した状態で休眠して冬の寒さに耐えるのだ。そして、この休眠を誘発する物質は葉の中で作られ、体内(樹体)へ移動する。ところが、早く葉が落ちてしまうと休眠を誘発する物質が十分に作れない。あるいは葉にこの物質が十分に作られても、その物質が体内に移行する前に葉が落ちてしまったら、休眠に十分に入らないままに、秋の温暖な季候をを迎えることになる。つまり、「桜」は、ここに春と勘違いして花を咲かせるわけだ。ちなみに、桜の花芽は夏の間にほぼできているのだという。

これが、「狂い咲き」のメカニズムだ。そして、これは「異端」と言うべきものなのだろうか。

子どもたちの「不登校」や「引きこもり」なども、ロジックとしては同じものだと思えるのだ。つまり、彼らは「なにものかを感じて《生きよう》と反応している」のだ。その結果として、彼らの「尋常ではない状況(もしくは行動)」があるに過ぎないのだろう。

ここに「異端」というラベルを張ることにどれほどの意味があるのか。また、この場合の意味とは「誰のための意味なのか!?。」という疑問が残る。ともあれ、この「異端」というラベルは、当事者である子どもたちよりも、その保護者に、ときにその存在をも否定するかのような苦悩を与えるようだ。

「… 「学歴など不要だ!」と言う人に限って、高学歴ではないですか!!。いまの時代「学歴が貧しければ、それだけで差別を受ける!」ことは、誰だって解っていることじゃないですか!!。だから、私が、なんとしてもこの子を学校に戻したいと考えることは間違っていないでしょう!!。…」

これは、黒いファイルケースの半分ほどを占める、ある「不登校児」の家族とファミリー・カウンセリングを行ったときのその父親の初対面の絶叫である。

彼は、二年ちかいカウンセリングを、「結局、私は、子どもの人生が子どものものであることに気付いていなかったようです。」と言う言葉で締めくくった。だが、彼は、「異端」というラベルに意味などないことには最後まで気付くことが無かったようだ。

数年後に、ある街の本屋で、当時、中学三年生だったこの家族のお嬢さんにバッタリあった。思いのほかに明るくなっていたこの子の曰く「あれから、父さんと母さんが離婚しました。わたしは、いま、母さんと暮らしています。」と…。

この子が、別れぎわに振り返って「おじさん、いろいろ話を聞いてくれて、ありがとう!!。」と言ってくれたことだけが、この黒いファイルケースに関係して、唯一残ったここち良いものだった。

焚き火小屋の「桜」の狂い咲きは、毛虫にすべての葉を食べ尽くされて遺伝子レベルの(意思などないだろうが、)サバイバルであるのだろう。そして、だとするなら、われわれの言う「異端」とは、ある意味「懸命な努力の結果である」ようだ。

わたしは、「異端と言うべきもの」を拒絶する感情こそを拒絶したい!。

さまざまの 事おもひ出す 桜かな

芭蕉は、貞享五年春、かつて奉公した頃のことなどを思ってこの句を詠んだそうだ。

ともあれ、今年も運良く、秋の碧い空を背景に美しく咲く「桜」を見ることができた!。
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