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『独座観念』 
昨年の夏の終わりに、焚き火小屋やおばあさんの農機具小屋の増改築を、ともすると引きこもりがちな秋から冬のあいだの仕事としようと考えた。そして、そのモチベーションの維持と、作業中にでる木屑などの始末もあって、冬のあいだストーブなどの暖房器具を使わない暮らしを心がけた。

必然、焚き火小屋に火を焚くことが多くなり、調理や食事にもその火を使い…。その習慣が続いて、そろそろ一年が近い。

これを俯瞰すれば、50年も前の田舎の暮らしに戻るかのようだ。ときおり訪ねる知人たちも、ときに唖然とすることがまれにある。だがしかし、その唖然は、一時間もともに過ごせば大きく変わる。

すべてが本当のものだからだ。また、ここには「妥協」や「我慢」が一切ない。必要だと思えるものは、すべて理にかなうように設えてある。厳密に言えば、こうした環境だからこそ可能な「贅の限り」を意識したデザインを幾重にもかたちにしてあるのだ。だけに、そこに気づいた知人たちは、ただただ羨望するしかないようだ。

先日、その焚き火小屋で、「贅の限り」のその先を感じるこの上もないときを過ごさせていただいた。

「『田園に豊かに暮らす』を考える女性の会(通称名:ベロニカの会)」と、その知人のゴスペルを楽しむ音楽グループが、「焚き火小屋でゴスペルを…」題したコラボレーションをおこなった。素敵で、言葉にならないほどに心地よくて…。だが、しかし、その素晴らしかったときへの反応の大半は、"想像できなくもなかったこと"だった。スタッフや、ゴスペルのグループの見るからにここち良い緊張も、そして、ゲストの襟を正した素敵な様子もだ…。

井伊直弼の『茶湯一会集』に「独座観念」がある。「客を見送った後、炉座に独座し、今日の一期一会が再び帰らぬことを観念して静かに独服する。」と、茶席の後の亭主の心得として出てくるのだが、この哲学的思惟にもちかいものを解する機会を、プログラム終了後のあるゲストの「この余韻を楽しみながら、娘と歩きます。」という言葉に得ることが出来た気がするのだ。

けして江戸末期の大老の精神性と、焚き火小屋の自分たちのそれとが同じものであるなどと自惚れるつもりはない。ただ、この国の文化の総合的芸術ともいうべき「わび茶」の真髄に「火」と「客を遇するこころ」があり、その一会のあとに「独座観念」する凄さを、ほんの少し理解させていただいた気がする。

上津の風景は、そのままに「浄界としての路地」に通じるのだろう。そして、豪奢を嫌い、この地に当たり前にあるものこそを大切に仕立てられた焚き火小屋は、いわゆる「山里の草庵」に通じるものがあるのかもしれない。

ここにベロニカさんが、襟を正したゲストに饗したものは、茶の湯にいう「炭手前」にもにた"火を使った心尽くし"だった。すべては、その結果だったのかもしれない。

おりからの満天星の下を睦まじく帰られたゲストを見送ったあとも、「いまごろどのあたりまで…!」と皆が寡黙なときにいた。

「花もみじ苫屋も歌もなかりけりただ見渡せば露地の夕暮(南坊宗啓)」

焚き火小屋に「炉」が切られ「松籟の音」を幽かに聴いたわけではない。だが、「もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)」という亭主のこころは、スタッフ全員の思いに確かにあった。

「火」の有益性は「熱源」としての機能のみに止まらない。また、かつて、人々の暮らしを支えた「里山」は、その資源としての有益性を失っていないのだ。にもかかわらず、現在のこの国の燃料の自給率は驚くべきことに、わずかに4%ほどであるという。現在に至るわずか50年の間に見失った「薪炭」という文化について、そろそろ真摯に再考するべきときであるようだ。

本当の豊かな暮らしとは、それぞれの暮らす風景や風土、その地の環境との関係を失わないデザインの中にこそある。そして、それぞれの地域のオリジナルな暮らしのスタイルを認めあう発展こそが、持続可能なこの国の未来のためにもっとも大切なのだと理解したい。
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