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たぐいまれなる風景に… 
上津は田舎です。
美麗し、美味し、田舎です。
このたぐいまれなる心地良さを、あなたも感じてみませんか。めぐみ豊かな風景を、あなたも訪ねてみませんか。

これは「『田園に豊かに暮らす』を考える女性の会」を名のり、自らが暮らす上津の美しい風景の中にある大切なものに、自分たちの未来への思いを重ねて活動するベロニカの会のメンバーがもっとも大切にする言葉であるという。

じつを言えば、ずいぶん前にもこの言葉を借りて「心地よくて…」と題した小さな文章を書いている。

この言葉にはじめて出会ったとき、「かつてどこかで出会った…!?」と感じたのだ。そして、民俗学者 宮本常一が、その著書「日本の女性史」に「女性たちは…まな板と包丁を持ち寄って、地域社会をぱたぱたと支えてしまう…。」と記す部分を思いだした。

持続可能な社会が意識されるときに良く使われる言葉に「内発的発展論」がある。

社会の本来的な発展とは、それぞれの地域の特性や存在を互いに認め合い、それぞれが、地域の風土や風景など、その自然環境との関わりを大切に、誰にでも出来る程度の技術を意識して、関わる全ての人々が心地良いと感じられることを優先する。そして、それぞれの地元にこそ利益あることを考えるべきだということである。

彼女たちの立つ位置は、まったくこの「内発的発展論」の理に叶う。しかし、彼女たちにこうしたことを伝えても返ってくる言葉はいつも同じだ。「私たちは、自分たちの上津での暮らしを心地良いと感じたいのです。そして、大切にしたいと思えることを子どもたちや、ここを訪れてくれるすべての人に伝えたいと考えているだけです。」と…。

「思想」とも言うべきものである。

デラシネな都市の暮らしには生まれ得ない。その「生きる」にルーツを意識できる者のだけが持てる社会観と言うべきものであるのかも知れない。

従来、田舎暮らしや地域振興が語られるとき、言わずもがなに「都市との比較」が当たり前にあった。

都市とは、つまり、在地の村社会から人材を引き抜く形で成立した。そして、そこに発生した近代的生業との対比に都市を洗練、古来の生業の従事者が居住する田舎を野卑とする観念が生まれたかのようである。

戦後社会に、たとえば「百姓」を農業に従事する者に対する差別的な呼称であると捉える傾向が生じたそうだ。このためマスコミなどでは「百姓」という表現を控える。歴史を取り扱ったテレビ番組などで、本来の意味での百姓身分を指す場合などでも「農民」という言葉に置き換えることが慣例となっているそうだ。

ではなぜ、「百姓」を差別的な呼称であると捉える傾向が生じたのだろう。ここに難解な議論など必要あるまい。単純に、田舎を野卑とする認識が都市の側に潜在し、その連鎖のさきに田舎にもまた劣等感情のようにそれがあるだけのことだからだ。

「かっこいい農業!」という言葉はなにを意味するのか!。

地域振興というよりも、衰退する農業の再生に懸命なシーンに、最近、よく耳にする。しかし、この言葉も注意して聞けば、その背景をなす感情に農業が、つまり田舎に暮らすことが本来的に「かっこ悪い!」ことだという認識があるからだろう。

あえて異文化として捉えてみる。

ベロニカの会のメンバーの立つ位置は、どうやらそこにこそあったらしい。

つまり、田舎を都市の対極に置かない。そして、自分の足元にあるものに素直に喜びを見いだし、その先の先人たちの「自然知」にあふれた文化に感動する自らこそを大切にする。

また、自らのおばあさんたちこそをスーパーバイザーにすることで、都市に潜在する「田舎を野卑とする認識」もを遠ざける。そうすることで彼女たちは、つまり「上津」が、世界中に自らがここち良く暮らす、ただここだけにあることを確かな事実と受け止めるかのようだ。

当然、その上津にあるものを活かして、新しい業の可能性も考えれば都市のすべてを排除することは出来ないことだ。だが、自らの最良の居場所を見出してしまった彼女たちに、都市に媚び、これを迎合する意識などもうとうにない。


「…上津は田舎です。美麗し、美味し、田舎です。このたぐいまれなる心地良さを、あなたも感じてみませんか。めぐみ豊かな風景を、あなたも訪ねてみませんか。…」


彼女たちのこの言葉は、自らのここち良い体験に基づくそうした理解のさきに生れいずる。


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